愛についての映画を観ると、三島由紀夫のSF小説「美しい星」の最後に出てくる、人類への墓銘碑と題した一文を思い出す。
「地球なる一惑星に住める
人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきっぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾った。
彼らはよく小鳥を飼った。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑った。
ねがわくばとこしなえなる眠りの安らかならんことを」
デビッドは、まさにこの墓銘碑のように生きた。
人間のように生きたのだ。
愛をプログラミングされ生まれたデビッドは、私たちと同じだ。
私たちも、愛がないと生きていけない。
愛を感じられない時、私たちは自己の唯一性を自覚できなくなり、アイデンティティを喪失する。
デビッドが、自身の複製を目にして戸惑い絶望し海に飛び込む一連のシークエンス。
愛を感じられない時、私たちもあの時のデビッドのように、全ての人間が自分と同じように見えて自分の唯一性を自覚できなくなる。
「私は本当に私なのか」という問いの無限地獄に陥ってしまう。
デビッドがママに捨てられてから、画面はCGだらけになる。
ほとんどをCGを使わずにそれまで撮られていたのに、ママに捨てられてからしばらくCGだらけの画面が続く。
これが何を意味するのか、クライマックスのママとの愛に満ちた一連のシークエンスを見たとき明らかになる。
ママに捨てられたあとの暮らしは、デビッドにとって現実ではないのだ。
デビッドにとって、ママに愛されることだけが現実なのだ。
夢を見て、愛し愛されることこそ人間の特権であり、人間の苦悩だ。
どんなに苦しいことなのだとしても、それが人間の唯一性なのだったらそれをやるしかないのだと思う。
愛を夢見て生き続けるしかない。
「私とは本当に私なのか」という問いに答えはないのかもしれないけれど、その問いを生涯自身に向け続けるしかないのだ。
嘘をつきっぱなしについて、花を飾り、小鳥を飼い、約束の時間にしばしば遅れ、そしてよく笑うしかないのだ。
愛をしっかりやらなければと思った。