青山祐介

砂時計の青山祐介のレビュー・感想・評価

砂時計(1973年製作の映画)
3.8
『たくさんだ、時間から手を引け、時間とは触れてはならぬもの、挑発してはならぬものなのだ!空間だけでは不足なのか?…だから、神かけて、時間に手出しをするのはやめてくれ!』ブルーノ・シュルツ「砂時計サナトリウム」工藤幸雄訳 平凡社ライブラリー

ヴォイチェフ・イエジー・ハス「砂時計(Snatorium Pod Klepsydra)」1973年 ポーランド
原作:ブルーノ・シュルツ「クレプンドラ・サナトリウム」1937年

ヨーゼフ・Kならぬ、ユーゼフ・Nの世界に驚愕を覚えたのは、いつの頃であったのか、おそらく10年程前のことであったと思う。その後、「サラゴサの写本」のヴォイチェフ・イエジー・ハスが1973年に映画化していると聞き、シュルツの世界をどのように描いているのかが気になっていたところである。ようやくハスの映画を観ることができたのは最近になってのことである。
<クレプンドラ・サナトリウム>は「(相対性理論を応用し)一定期間だけ時間を遅らせ、過去の時間をその可能性ごとに生き返らせ、次に恢復の可能性に手を着ける」異様な治療を行っている療養所である。しかし、この映画は、ハスの目から見た特異なゆがんだシュルツの世界である。操り人形のように心の糸をあやつり、時間に深く介入し、過去に押し入っていくと、このような世界に紛れ込んでしまうことになる、ハス独特の世界である。ハスはシュルツの父のようにも、ユーゼフの父のようにも、またシュルツ自身のようにも見えるし、ゴタール医師にもみえる。ハス自身がサナトリウムの医師であり、時間を歪めた心理療法を行なっている。いや、ハスこそクレプンドラ・サナトリウムに収容されるべき患者だ。まるで、ハスの悪夢に彩色されたガラス陰画「偶像賛美の書」を精神分析の万華鏡を通して見ているような気分になる。どうやら、空間だけで不足なのはハスのようだ。空間は歪み、ハスの世界を尋常ではないものにさせている。その「一切の原因は」、「絶えざる監視の目を免れている時間の急速な分裂崩壊にある」のだ。「時間から手を引け、時間とは触れてはならぬもの、挑発してはならぬものなのだ!」物語は心の中への旅とも、夢の記述とも、精神分析とも言えないことはないが、危険な旅であり、危うさはここにある。ハスのこの映画はむやみに時間を挑発し、時間を偽造し、見せかけの世界を描いた時から始まる。人が無意識を発見し、心と時間の操作を思うようにできることを知ったときからあらゆる悲劇は始まる。シュルツの作品と生涯を思いやるとき、その悲劇性は限りなく深くなってゆくのだ。時間は怖い。
シュルツは、1942年、後に黒い木曜日とよばれることになる11月19日、帰宅途中の路上でゲシュタポによって射殺された。50歳であった。
『しかしまだここで終わりではない。われわれはさらに深く、へ下ってゆく(春Wiosna)』
のである。
※Klepsydra(クレプンドラ)は、水時計、砂時計の意味と、死亡ないし葬儀の通知、または掲示という両様の意味がある。「シュルツ全小説」訳者注記より。
青山祐介

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