Jeffrey

牯嶺街少年殺人事件のJeffreyのレビュー・感想・評価

牯嶺街少年殺人事件(1991年製作の映画)
5.0
「牯嶺街少年殺人事件」(4K版)

〜最初に一言、頗る傑作、人生ベスト、 揺るぎないショット、闇と光、少年が消した懐中電灯の残影を見た時、九十年代の全ての作品を凌駕する感動を観客に与える。正に傑作の名に相応しいアジア映画である〜

今回改めてエドワード・ヤンのこの作品を鑑賞して思った事を追加記入したいと思う。第四回東京国際映画祭で、この作品が上映された際に、審査員特別賞に輝いたのだが、それよりもワンランク上の東京グランプリに選ばれたのがジョン・セイルズ監督の「希望の街」だったのだが、台湾国籍の作品を認めない中国代表部の抗議によって本作の出品国は日本とみなされてしまい、台湾的な作品が日本映画と言うフィクションで、まかり通ってしまったと言う事もあったそうだ。更に別話するとエドワード・ヤンの最高傑作の一つで二〇〇〇年代に入ってから撮った「ヤンヤン 夏の思い出」は彼の生前に台湾ではー度も一般公開が実現しなかったそうだ。彼のフィルモグラフィにおいて最も国際的に評価の高い(クーリンチェ少年殺人事件とともに)ものであったと言うのにかかわらず、このような現実があるのは、そこにエドワードヤンの強い意思があったからとされている。台湾において彼は孤独であり、そういうふうに言われる事は少なくなかったらしく、同じ台湾映画作りを共にした若者たちとの時間は、彼にとっても特別なものであったように思われているようだ。どうやら彼と台湾の関係をめぐるものは色々と証言が残されているようで、台湾社会や映画界と良い関係を築くことなく、最後まで距離をとり続けていたと言われているようだ。

それから「クーリンチェ」は、「恐怖分子」の後の作品だが、実は「恐怖分子」の前からその作品は企画があったそうだ。ただ、企画を提案しても交渉が進まず、仕方なく他の企画で映画をまず撮ろうと言うことになり、その候補が「恐怖分子」だったと言う事だそうだ。だから準備期間はとても長い作品である。それから「クーリンチェ」はギャング同士の抗争を描いている場面もあって、脚本に4人の名前(監督を含む)クレジットされるが、そのうちの1人ヤン・シュンチンは元ギャングだったらしく、脚本家の1人が元ギャングの一員ならギャングの事いろいろわかるんじゃないかと思ってただ呼んだと言う話もある。その元ギャングの脚本家は当時まだ若かったらしい。これはホンホンと言うエドワード・ヤンに信頼されていた若い脚本家の口から話されていたものだ。

それから「クーリンチェ」は名前の通り実際に起こった事件をそのまま複製している反面、大枠の現実に起こった事件をベースにしつつも、映画の中のそれぞれのディティールや生活背景については、監督が自分で作り上げたものがとても多いとホンホンは話していた。ホンホンはこの作品がもっと青春の色が濃くて、明るい雰囲気の作品になると思っていたが、完成したものを観ると全然違って全体的に暗い印象が強く描かれていたとも話していた。そして限られた時間と予算的にも厳しかった「恐怖分子」とは変わって、本作ではかなり自由に余裕を持って撮影することができたらしく、監督はロケーションへのこだわりを強くさせて、納得いくまでロケハンやセット作りが続いたそうだ。やはり歴史を扱う作品なので、すべての現場を時代設定に合わせ、いちから作り上げなくてはいけないと言う信念があったのだろう。ホンホンが言うには神様のようだったらしい。

だからその余裕が「牯嶺街少年殺人事件」の現場である牯嶺街ではなく、台湾の南端にある軍人村で撮影されたそうだ。そのため、ロケセットとして住宅地に通る道なども全部いちから作り上げているそうだ。それから大変だったのは台風の夜の襲撃シーンらしく、あの時は消防車が何台も呼んで、撮影にはとても時間がかかったらしい。確かにあのワンシーンはものすごい迫力があった。監督はカメラに関してもこだわりを激しくして、ライティングや役者の動きに合わせたカメラのフォローなど、彼は現場のカメラマンよりも厳しくチェックもしていたらしい。しかも当時フィルム撮影だったからその場で確認もできないため技術的に不安要素が残る場合はバックアップとして撮り直すこともよくあったらしく、メインの役者たちが子供だったために、コントロールが現場できかない時もあったらしく、撮影が中断されることもしばしばあったそうだ。

そのため、拘束スケジュールも伸びていき、次第にその延長分の報酬を支払えない状況になっていたので、最終的にはまだ撮影途中にもかかわらず、現場を抜けていく人たちが何人も出てくる事態になったそうだ。因みにホンホンは妻と結婚してフランスに行く予定を立てていたらしいが、完成をずっと待っていても中断ばかりが相次いでしまったので、結局妻と2人でフランスに行ってしまったらしい。それからエドワード・ヤンにあったのは、この作品が完成してカンヌ映画祭に招待された時だったと話していた。ちょうど彼と妻はそのままフランスのパリにいたので、映画祭の帰りに会えた(監督から出向いてくれたそう)そうだ。話変わって、当時の台湾の若い映画監督たちの間では、役者たちのパフォーマンスがそこまで期待できない時に、カメラを役者から遠ざける傾向にあったそうだ。

その代表的な監督としてエドワード・ヤン監督がいて、似たような環境で撮影していた候孝賢も同じ立場を貫いており、彼らはよくブレッソン(フランスの映画作家ロベール・ブレッソン)などの理論を参考に、演技をとらえるカメラ位置の重要性を語っていたそうだ。だから「クーリンチェ」の見せ場のーつの少年が少女をナイフで刺してしまうシーンをロングショットでとられたのもその原因のーつである。あそこは本当ならクローズアップで撮る予定だったらしい。しかし、監督は感情的な演技をどうやって演出すればいいのかわからなかったとの事。違う余談だが、エドワード・ヤン監督の「恋愛時代」は映画の配給を台湾のWarner Bros.会社に任せていて、その頃、洋画系配給会社が台湾映画を配給する事はなかったので、ワーナーが配給するはじめての台湾映画になったのが「恋愛時代」だそうだ。

ちなみにこの作品はカンヌ国際映画祭に出品されたが、監督は完成版に対して、不満を持っていて、台湾国内で上映するときに、再編集してから公開されたそうだ。それにこの作品から、監督は観客が抱いたキャップなどを重んじて、観客に近づこうとする作品を始めたのだが、実際あまりヒットしなかったため、この映画の世界を見て共に笑ってもらいたかったその気持ちが徐々に監督の姿勢を初期のものに戻してしまったそうで、これ以降からまた自分自身の立ち位置から映画を撮ることに戻っていたそうだ。自ら観客に歩み寄り、彼らを喜ばせ、彼らに重要だと思えることから映画を作ることをやめた瞬間だったとホンホンは話していた。だから「恋愛時代」はかなりのコメディ映画になっていたのだと思う。逆に、それがエドワード・ヤンらしくない作品だと、己に不満を持って矛盾を抱えていたんだと思われる。

そしてホンホンとも決別するようになってしまった。その後発端はエドワード・ヤンのキャンセル思考のせいだと彼は話していた。二、三ヶ月準備していたものをいきなりやめると言って全て台無しにして、出版会社なども理解できないと後片付けを全てホンホンやって、もうこういう仕事をやめようと決めたそうだ。「恋愛時代」が公開される前あたりから、彼はソリが合わなくなることが多くなり、最終的には会社から離れ、監督とは一緒に仕事をしないと決めたそうだ。だからヤン監督の遺作「ヤンヤン 夏の思い出」の台湾公開を望まなかったんだと思う。もう自分の作品を現地の人にわかってもらえないと、映画界との複雑な距離を取り続けてしまったのだ。正に完璧主義者だったのだろう。ホンホン曰く、監督は台湾社会の映画界全体に対して、あるいは制作環境からマスコミに至るまで、強い不満や不安を抱えてしまったそうだ。

その頃の台湾のマスコミは、とにかく映画記者たちは、頻繁に芸能人や役者たちのプライベートについて記事を書き立てていたそうで、そういうこともあって、監督はずっとマスコミに不信感を抱いていたらしく、彼らとは良い関係を築こうとせず、むしろ距離をおきたがっていたそうだ。しかし自分の映画の宣伝になれば、そうしてずっと距離をおくわけにもいかず、マスコミにも満足してもらわないといけない。だからこうした矛盾は昔からあったのだと思うと話していた。それは「恐怖分子」の頃からずっとあったそうだ。例えばその作品に関してのエピソードを話すなら、「恐怖分子」の予告編を編集するときに、制作会社の中影は、劇中で警察官と犯罪者が撃ち合う銃撃戦がメインの予告を作ったそうだが、監督は本来なら違う予告編を考えていて、映画の主人公がただ歩道橋の上を歩く、そのなんでもない映像に銃声が鳴る、このような予告編を作りたかった。

しかし会社側で監督が提案した予告編では観客を引っ張ってくることはできないと感じていて、だからといって、制作会社が編集したような銃撃戦がメインの予告編を採用しても、そうした犯罪アクション映画を見たい人々は劇場にたくさん足を運ぶでしょうが、実際に彼らがこの作品を見れば、きっと期待した映画と違うと言って腹を立ててしまうと思うとそう感じていたいそうだ。その話を聞いて個人的にものすごく気持ちがわかった。いわゆる詐欺予告。ただ歩道橋歩くだけのなんてことない描写を予告編に入れるのはアンゲロプロスの「永遠とー日」でただ海の見える歩道を犬を連れて歩くだけのあのワンシーンだけで、自分は泣かされたので、監督のその気持ちがすごく伝わった。

ウァン・ウェイミンと言う「クーリンチェ」に携わった出演者兼スタッフの人のインタビューによると、候孝賢とエドワード・ヤンは親分肌と言う似たような存在だったらしい。雰囲気がそれぞれリーダー的で、非常に仲が良かったが、互いに作品のコンセプトや仕事のスタイルが違っていたようだ。またこの作品は技術的にも芸術的な面においてもすべてのレベルが高く、ヤン監督たちが活躍していた頃の台湾映画にはプライドがあり、たとえマーケットを無視しても、我々は良い作品を作らなくてはならない、そういった高い志があったそうだ。しかし、こうしたプライドとその精神は、最近の台湾映画には感じられなくなっていたと語っていた。このインタビューを読んでなるほど、日本映画の今もそうだなと感じた。六〇年代から始まったアート・シアター・ギルド(atg)の監督たちや作品を見るとなおさらそう感じる。

ウェイミンの話によると、エドワード・ヤンは、ウディ・アレンの作品やイングマール・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニで、フランソワ・トリュフォー、溝口健二、小津安二郎等の作品(デビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」をかなり気にいっていたようだ。それからクリント・イーストウッドの「ミスティック・リバー」を鑑賞して、また映画を撮りたいと思ったと伝えていたようだ)を色々と参考にして、そこに中に自分の演出をくわえていたと言う。それと、彼は漫画とアニメが大好きで、手塚治虫を尊敬していて、鉄腕アトムの大ファンだったそうだ(彼が手塚漫画からの影響はとても大きく持っており、鉄腕アトムがなければ映画を作る事はなかっただろうと言っていたそうだ)。漫画に触れることで物語を語る楽しさを知っていたそうだ。だからアニメに対する彼の思いはとても大きくて、結局癌でなくなってしまって、作ろうとしていたアニメーションは作れなかったから、自分でアニメを監督しようと思ったのだろう…。エドワード・ヤンは関係者が言うように、すごく子供っぽくて短気な性格だったと言うのもなんとなくわかる所だ。

そのアニメについて面白い話があって、ある日、会社の仕事で、バスケのダンクシュートをアニメーションで描くことになったスタッフが、監督に試しにビデオカメラで実際にダンクをする姿を撮影して、その映像をベースに作画してみたのを見せたら、全然気に食わないような顔をして、監督がペンを握ってたった二分程度でささっと十枚ほどの画を描いたそうだ。それをスタッフらがアニメーションにしてみるのと、自分たちが作ったものとは遥かに超えるクオリティになっていて、かなりびっくりしたそうだ。ビデオで撮影した映像よりもずっと精度が高く運動が描写されていて、天才にしかできないと言っていた。監督の頭はこの動作を何コマで書くべきかどうか、一瞬で計算できてしまったんですと、アーヴィン・チェンが語っていた。

今思えばエドワード・ヤンは大のメディア嫌いで有名で、それにおいて台湾を離れて米国で住んでいたと言うのは有名な話だが、彼の作品は一部(日本で撮影したヤンヤン 夏の思い出を除く)作品などは全て台湾の地でとられているのも、やはり切っても切れない台湾との縁が彼にはあったんだろうなと思う。それは彼と歴史が関係しているんだと改めて思った。確か中国を題材にした企画もあったと言う話を聞いたことがある。紆余曲折ある根底には台湾への思いがひしひしとあったのだろう。「ヤンヤン 夏の思い出」で唯一台湾語が話されるのは、オープニングのエレベーターのシーンでシェリーとばったり再会する主人公の男と会話をする場面だけで、その後は日本語と英語と中国語だけと言うのも、エドワード・ヤンがいかに台湾を思っているかと言うのをこっそりと入れているシーンだと感じた。

しかし、クライマックスで二人が別れる際に話している言葉は台湾語から中国語へと変わっている。台湾語と言うのは台湾でもほとんど使われておらず(と言うよりかは、日本語で言う方言のような立ち位置になっており)、いきなり台湾語で挨拶してもみんな驚いてしまったり意味を理解できないと言う。九〇年代の作品でエドワードヤンの恋愛時代やカップルズにおいても、中国語と台湾語が劇中で話されたり、英語が物語にとって必要不可欠な要素として扱われていることがあったのを思い出すと、主題の問題として意識的に己の作品に取り入れてきたんだなと言う事は少なからずわかってくる。

話は変わって、エドワード・ヤンと言う名前もそうだが、香港や台湾には英語名を持つ人が多くいる。それは学校で初めて英語を習うときに、外国人教師が名前を呼びやすいように英語名をつけて、そのまま使うケースが多いらしい。特定の中国語名が特定の英語名と結びつくと言う関連性は無いらしい。それと同じように、エドワード・ヤンの映画にも中国語の題名と英語の題名がつけられている。それとエドワード・ヤンは映像作家である成瀬監督のことを唯一無比の存在であるとインタビューに答えていたのと、彼はドイツ映画の鬼才ヴェルナー・ヘルツォークの「アギーレ 神の怒り」を見たことで、後の彼が成瀬に見いだすもののその無私無欲作品、独創的極まりないスタイルで積極的に映像に自分のスタイルを残す監督の作品に感銘を受けて、シアターでの技術者生活を辞めてしまい、映画監督になるために台湾に帰ったと話していたそうだ。

ちなみに監督の帰国のこのタイミングは、半導体産業に台湾経済発展の可能性を見兼ねていた国民党政府が、米国経済の停滞傾向の中で不安にさいなまされつつあった在米台湾人技術者や科学者に対し、帰国と台湾での企業等を積極的に促す支援策を開始し、工業技術研究員による牽引のもとで実際、大規模な半導体企業が次々に創業される時期にぴったりと重なるそうだ。これは金子遊氏が私が読破したエドワード・ヤンに関する四五〇ページに及ぶ書籍の中で話していたことだ。


この「ヤンヤン」と言う作品は、小柄な男児が主人公であるが、エドワード・ヤンの初期の作品のオムニバスでも大きなフレームのメガネをかけた背の低い男の子が出ていたことをふと思い出すが、今思えば、「クーリンチェ少年殺人事件」でもソプラノボイスの響きとともに周囲の少年たちから際立った存在感を出していたワンマオもすごく小柄だったと思う。なんだろうエドワード・ヤンと言う人物は小柄な男児をよく使うなと感じる。それは黒澤明の作品、「スター・ウォーズ」の作品同様に二人のショットが目立つのもこの作品の特徴的であるー種のアイコン的なものを映し出していると思う。ちなみ「カップルズ」の主演の女性は本来は宮沢りえに監督が決めていたそうだが、彼女が結婚問題でこじれていて、俳優として意気消沈していた時代だったため、フランス人の若い女優を選んだそうだ。四方田犬彦氏によれば、アン・リーが監督した「ラスト・コーション」を取るより遥か前にエドワードヤンはチャン・アイリンの「色、戒」の映画化を企画していたそうだ。

ちなみにオリヴィエ・アサイヤス監督の「冷たい水」に出演していたヴィルジニー・ルドワイヤンが「カップルズ」に出演になった経緯は、九十四年に京都で開催された東京国際映画祭で、ヤンの恋愛時代が公開された際に、京都でアサイアスと再会した際に、彼女を紹介され次回作の「カップルズ」出ることになったそうだ。

↑ここまでが2022年4月の新たな感想と情報。



冒頭、民國四十八年の夏。紫幹翠葉の田舎町、小公園と言うグループ、不良の対立、外省人の家族、中国大陸への夢、ハニーの不在、軍の車、日本刀、殺し、電球、かき氷屋、米国文化への憧れ、スタジオ、学校。今、一人の少年の目線で六〇年代の台北を見る…本作は楊徳昌(エドワード・ヤン)の正真正銘幻の映画(プレミアのVHSのみ)として、シネフィルの間では崇められていたが、二〇一七年に日本で四Kで再上映され、角川シネマにて当時鑑賞したが、あまりの傑作に翌年BDを購入し一年も満たずに再度鑑賞してそれから二年後三度目の鑑賞したが素晴らしいの一言。今回台湾映画特集をYouTubeで行うために改めて見直したがとんだ二三六分を経験する。発売元となったヒーロー・コミュニケーションズの倒産により、長らく廃盤になっており観る術がほぼなかったが、今となっては配信もレンタルもされておりリーズナブルに見れる。長生きするといいことも起きるんだなと思わされた数少ない事例である。

さて、本作は一九六一年に台湾で実際に起きた中学生男子による同級生女子殺傷事件をモチーフにした青春映画で、マーティン・スコセッシの会社とクライテリオンの共同によりBDが発売されている事は周知の通りだろう。

さて、物語は 一九六〇年代初頭の台北。夜間中学に通うシャオスーは不良グループ小公園に属するワンマオらとつるんでいる。シャオスーはある日、シャオミンと言う少女と知り合い、淡い恋心を抱く。彼女は小公園のボス、ハニーの女だった。姿を消していたハニーが突然戻ってきたことでグループ同士の対立が激しさを増し、シャオスーたちを巻き込んでいく…彼の両親は不良たちが影響を与えている夜間部の勉強から一日も早く昼間部への編入ができるよう実力者の教員に頼んでいる。彼の両親は上海から渡ってきた外省人で、彼らは職業ごとに集落で暮らしていた。より良い生活ができると信じて台湾へ渡ってきたそうだ。彼は成績は優秀だが、学校の隣のスタジオに友達と行き、授業をサボる。ある日、シャオスーは保健室でシャオミンと言う女子生徒に会う。ある日、転入生がやってくる。シャオスーはその転入生と仲良くなる。夜のバンドライヴの日に不在だった不良グループのボス、ハニーがやってくる。敵対している二一七の連中のボスのシャンドンと喧嘩する。ここで悲劇が起きる…そこからシャオスーたちの人生の歯車が外れ壊れていく…。

本作の冒頭は、天井にぶら下がっている電球をいじる手の固定ショットから始まる。民國四十八年(一九五九年)夏。誰かの父親が学校の部屋で息子が良い点数を取っていないことに対して先生と話をしている。廊下のベンチでその息子は学生服を着て座っている。カットは変わり野外のショットへ。人々が木漏れ日の中を自転車で走ったり、日傘をさして子供と歩いたり、牛車をひいたり、箒で落ち葉を掃いてる人々を長回しする。するとヘリコプターの音が聞こえてくる。すると先程の父親と息子が自転車に乗りながらカメラの方へ向かってくる。カットが変わり、かき氷屋で父親と一緒にかき氷を食べている息子が映る。ラジオからは合格者の名前が流される。ここで物語の一部の説明が文字化される。

民國四十九年 九月。

カットは変わり、どこかの演劇舞台のセットが写り、そこには数十人のキャストさんがいる。どうやら揉め事が起こっているようで対立が映される。カメラは全体の構図が撮れるように真上からショットする。どうやら衣装を変更するのに嫌がっている女優がつべこべ言っているようだ。するとカメラは一段上に上がり、先程の少年(息子)と友達らしき少年が、天井屋根裏からそれを眺めている。すると本が落下してしまい、上にいることがばれて、懐中電灯を持ったスタッフが怒鳴り込んで探しに来るが二人は扉から逃げる。そして立ち入り禁止と書かれている小部屋に座り、紙吹雪のようなものを吹いている。結局のところ見つかってしまい、田舎の交番に連行される。警官は名前はなんて言うんだと問い詰めるが、話さない。途中交番の窓ガラスに石が投げられ窓が割れる。その隙に彼は逃亡する。続いて、暗闇の中(夜)の木陰の下で若い男女がキスするのを懐中電灯で照らされる。

少年の名前はシャオスーで、一緒にいた同級生(体が小さい)の名前はワンマオである。そのキスの光景を見た二人は小走りで二人をおちょくり走っていく。カットは変わり、翌日学校のクラスの中へ。カメラは席に座っている子供たちを真っ正面からとらえる。先生はテストのような用紙を前から順番に流れ作業で配らせる。その日の夜、不良グループが集まる。敵対している不良グループと追いかけっこしながら喧嘩をする。そうすると敵のグループの少年が捕まって、リーダー格の少年の縄張りに来て、レンガで顔を殴られる。彼はただついてきただけで不良とは違うと懸命に命乞いをしていたが、リーダー格の少年はまず、下っ端の少年たちにレンガで殴れと言うが、その子たちがびびってしまいやらなかったため、お手本だと言い彼が実践してみせる。相手側の少年は一発で倒れて口から血を流す。

カットは変わり、シャオスーが自宅で電気を繰り返しつけたり消したりする。どうやら目の調子が悪いらしく、実験的にやっていたそうだ。彼は晩飯を食べる。翌朝、彼の妹がボタンが外れた、ピンがないと朝っぱらから騒いでいる。シャオスーは父親に起こされないと起きないのかと喝を入れられる。彼の寝床は押し入れの中の一角である。カメラはゆっくりと部屋の中の構図をフレームに取り入れていく。シャオスーは集会の当番だからと言って出かけてくる。彼を迎えに来たのは親友の(不良グループのメンバー)ワンマオだ。

続いて、土曜日の集会に集まった子供たちが学級委員長らしき生徒の話を聞いている。拍手喝采する場面をカメラが固定ショットする。そうすると生徒たちに与えられている番号が呼ばれる。シャオスーは呼ばれて、先生たちに懐中電灯を盗んだのはお前か、バットで窓ガラスを割ったのはお前かと問われている。そこへわワンマオがフォローしに来る。カットは変わり、クラスへ。昨日レンガで相手側の少年をぶったリーダーの座を狙う少年ホアトウがシャオスーに俺の噂を流しただろう、でたらめを言うなと喝を入れる。彼は答案を見せろよと言うが、シャオスーはダンマリ。学校の昼休みへ。

ホアトウがシャオスーに絡んでくる。シャオスーは彼に殴られ、仕返しにバットでホアトウを殴ろうとするが、主任がいたためやめる。二人は主任に注意されるが、その場にいた生徒のバットを勢い良くとってしまって、主任にそのバットを没収されたため、その生徒が新品で買ったばかりなのにどうしてくれるんだと彼に問い詰める。カットは変わり、その日の夕方。お姉さんにその顔どうしたのと言われ、ボールが当たったと嘘をつく。彼の自宅へ。夕食の支度。家族団欒の食事が始まるが果物店の音楽がうるさいと母親が愚痴をこぼす。シャオスーは自分の寝床である押し入れの中に入り、懐中電灯で明かりを灯しメモ用紙にホアトウことを書く。そこへ没収されたバットが七〇元するためそのお金を兄貴のラオアー?(彼の足しか見えないため誰なのかわからない)からもらう。

続いて、バスの中で夫婦が息子のシャオスーの目に関して話をし、夜間学校だと目を悪くするわ、昼間学校へ転入する手続きの話をしている。翌日、学校近くで屋台を出している少女のパンツを見たいがために、三人の生徒が売り物をとってしまい、連携プレーで彼女のスカートをめくる。彼女は怒る。そして保健室で注射をするシャオスーとその前にバスケットをやっていた女子生徒のシャオミンが足をくじいてそれも診断している。カメラは学校の野外廊下を歩く二人の背中を捉える。二人は学校近くにあるスタジオの天井屋根裏で隙を覗いている。すると、またスタッフ同士で喧嘩をしている。

続いて、監督がたまたま偶然スタジオの扉から抜け出そうとしているシャオミンを見て、オーディションに来ないかと誘う。だが、彼女は彼が嫌がるわと悩んでいる。その彼と言うのが実は不良グループの頂点に立つリーダーで、今は不在のハニーと言う男である。カットは変わり、二人は枯れた草むらに寝転び戯れる。カメラは三人の少年を原風景を背景にロングショットする。ここでヘリコプターの音が強調される。この大きな土地では兵士たちが訓練をしているようだ。それを引き気味に撮るカメラ、周りは緑ばかりの田舎町。シャオスーとシャオミンは不良グループの縄張りに居たことによって少年四人に絡まれる。だが、シャオスーは相手の少年の股間に蹴りを入れて彼らは逃げていく。方向が違うため彼はシャオミンと別れる。

続いて、ビリヤードを楽しむ若者連中が捉えられる。次のカットでは、小公園の不良グループのメンバーであるアーティオアがバンドの仲間と歌を歌っているシークエンスへ変わる。ピアノ、ベース、コントラバス、それぞれの役割を果たしている。音楽が流れるままカットは変わり、ホアトウらがその歌を歌っているレストランへとスーツ姿でやってくる。ワンマオも歌を歌いはじめる。アーティオアはステージから離れる。厨房でホアトウと喧嘩する。シャオスーがシャオツイ(ホアトウの彼女)とアーティオアの関係を言い触らしたことによって仲間割れしているようだ。それをワンマオがシャオスーにお前が言い触らしたから喧嘩していると言う。ハニーがいないことがー番の問題だと理が、リトルプレスリーと呼ばれ、会場に戻り歌を歌うワンマオ。

続いて、シャオスーの家に置いてあるラジオを修理するワンマオ。シャオスーのお姉さんの下着姿を見てしまい鼻の下を伸ばす。続いて、体育館でバスケをする複数の生徒たち、ホアトウが仲間の少年にお金をもらおうとするが彼の父親がいて諦める。続いて、体育館で対立してるグループの少年らにホアトウが袋叩きにされる。バスケット部のシャオフーがハニーの彼女であるシャオミンのことが好きで、そのことをハニーが知ったらとんでもないことになるから気を付けろよとホアトウが忠告するが、それに苛立ちを見せ殴る。続いて、シャオスーの家へ。夫婦が息子のメガネを買わないといけないことを話す。夫の給料があまり良くないことを妻は言う。

翌日、学校のクラスに転校生がやってくる。彼の名前はシャオマー。彼の父親は司令官のため、裕福で不良たちにも顔が利く。クラスメイトは彼の事を見つめる。どうやら興味津々のようだ。英語の授業が始まる。ワンマオはシャオスーに転校生は元いた学校で人を切ったやつだと伝える。先生に話してるところを注意され前に出てきて黒板に課題を書かされる。カメラは転入生の少年を捉える。次に、シャオスーが先生にさされ、よそ見していたことを注意される。続いて、学校帰りの夜。自転車置き場にいるシャオスー。彼の名前を呼ぶシャオミン。彼は無視をするが、追いかけてきたので自転車を降りて歩きながら会話をする。

続いて、二人は誰もいないあのスタジオにやってくる。ハニーのことが怖くて私と話したくないのねと彼女は言う。続いて、シャオスーの家へ。お姉さんは彼に母親の腕時計が昨日まであったのになくなっていることを問い詰める。あなたしかいないでしょうと言うが、そこで賭け事にはまっている兄貴がやってきて、それは俺が盗ったんだと言う。母親にばれたら大変なことになるからとお姉ちゃんが現金を渡して腕時計を取り返してきてと言う。カットは変わり、シャオミンの家へ。カメラは、外から彼女の動きを捉える。病気で今にも危篤状態になりそうな女性がベッドで寝ている。

カットは変わり、シャオミンはスタジオ内でオーディション用の撮影をしている。彼女は目から涙を流している。そこへスポンサーがやってくる。カットは変わり、学校の職員室へ。教員たちがシャオスーとホアトウを叱っている。また職員室に翌日彼の父親がやってきて主任と息子について話をする。父親は主任に対して不条理に減点するのは教育上良くないと息子をかばう。その場にいる息子は全て会話を聞く。会話が終わり、自転車を引きながら外を歩き親子が会話をする。近所のお店の主人と息子についての意見違いがありごたつく。次のカットでは家へ。そして夜、不良グループの縄張りでシャオミンとのデートにより絡まれてしまったシャオスーが転校生のシャオマーが助ける。これによって二人は仲良くなっていく(実際不良グループはシャオマーを探していた)。

続いて、シャオマーは喧嘩にはこれくらいを…と刀をワンマオにみせびらかす。彼はスゲェと驚きその刀を手に持つ。次にアイゼンハワーが家に来たときに置いていったレコーダーを見せびらかし、ワンマオは魅了される。カットが変わり、不良グループの一人が外に出ると彼氏が変わるんだなぁと洗濯物をしているシャオミンに話しかける。彼は屁をこきおちょくる。そこに二百十七グループのシャンドンの彼女であるクレージーがやってくる。その姿を見た不良少年はその場から立ち去る。彼女はシャオミンを抱く。そしてハニーから連絡はと聞くが何も話さない。

翌日、学校の外でシャオスーとシャオマーが話す場面へ。そして保健室で足の具合を見てもらうシャオミン、シャオスーと二人で階段を降りる。次のカットではElvis Presleyの歌を歌っていたレストランの場面へ変わる。そこに二人姿があり、テーブルに向かい合わせになって微笑む二人。そこへホアトウが仲間を連れてやってくる。シャオスーは絡まれるが、身を隠していたハニーがやってきて、その場から解放させる。ハニーは仲間に俺が戻ってきたことを伝える。続いてその夜。土砂降りの雨が街を濡らす。カッパを着てシャオスー達がとある場所へやってくる。そこにはハニーがいる。彼は重要なことを仲間に伝え、仲間らが次々に降りると、シャオスーだけ残れと言われる。彼はその場に座り話をする。ハニーはシャオミンはお前が好きだと言う。すると彼はシャオミンはずっとあなたを待っていたと伝える。

続いて、生徒諸君による課外授業が行われる。教員はトラブルは全体の恥になるため注意するようにと生徒らをーカ所に集めマイクで伝える。そして国歌斉唱する。そこへハニーもやってくる(会場の外)。チケット係の男がチケットは?と彼に言うと彼はコンサートを開くなら事前に伝えらと言う。ハニーは(相手側の)ボスのシャンドンを呼べと言う。下っ端がコンサートを見ているボスに耳打ちして彼がその場から立ち去る。そしてハニーがいる面やってくる。二人は話をするが決裂する。そして警察がいないところまで歩いて行く。それをシャオマーが見ている。ハニーとシャンドンは二人きりになり、小道を歩きながら話す。するとシャンドンが背後からハニーを前方から来た車の前に押す。その瞬間カットはライブ会場で歌を歌っている男性のクローズアップになる。

続いて、シャンドン一派がコンサート会場へやってくる。それを外で焼きとうもろこしを注文していたシャオマーが目撃する。彼は会場でコンサートを楽しんでいるシャオスーに焼きとうもろこしを渡す。そして耳打ちで何かを話す。カットは変わり、軍のトラックにひかれたハニーの遺体現場へ変わる。ハニーは布で覆われている。次のカットではシャオミンが自宅で縫い物をしている。翌日、生徒たちはハニーは敵対しているグループの二百十七に殺されたらしいと言う噂をしている。授業開始のチャイムが鳴り生徒たちは教室へ戻ろうとするが、シャオスーはトイレに行くと言って数日登校していなかったシャオミンを目撃したので彼女に会いに行く。そして二人は会話を始める。

続いて、バスケットをしている生徒たちのシーンへ。足を痛めているシャオミンはベンチでそれを見ている。彼女に好意を持っているシャオフーが彼女に話をかけるが無視される。それを眺めているシャオスー。カットが変わり、自宅へ。シャオスーは帰宅する。両親は息子の昼間転入を関係者と話している。彼は押し入れに入り、ノートに何かを書いている。彼は鼻血を出していてティッシュを鼻に詰め込んでいる。そして両親の会話を盗み聞きしている。カットは変わり、ワンマオが顔にアザを作っている。彼はムキになってナイフを手に持ち相手を殺しに行こうとする。

続いて、テニスをしているシャオマーにシャオスーが会いに行く。彼の自宅に上がり込んでオレンジジュースを作ってもらうが口にせず、射撃の練習を庭でさせてもらう。カットは変わり、映画館で映画を見ているシャオスーたち。カメラはシャオマーがシャオツイの太ももに指を置く場面をクローズアップする。続いて、夜のテニスコートへやってきた彼ら。シャオマーとシャオツイと接吻する。ベンチに腰かけているシャオスーともう一人の女の子も雰囲気的に接吻する。それを正面でとらえるカメラ。その帰り道、酔っ払っているティオさん(いつも街でお酒を飲んで酔っ払っているオヤジ)が溝に落っこちてそれを助けるシャオスー。

翌日、小公園かき氷のお店へ変わる。そこには不良グループたちがたむろしている。外は土砂降りの雨、ー組のカップルがどうやら喧嘩をしている。男は外の車で出て行く。女は泣きわめく。この町に台風がやってきている。シャオスーは仲間らとその土砂降りの雨の中、二百十七の不良グループの一人をトイレで刀で斬り殺す。そして奴らのアジトは停電する。蝋燭に火を灯す。そして一瞬の出来事のように暗闇の中で懐中電灯の光があちこちに照らされ殺し合いが始まる。そしてカットは変わり、かき氷店にやってきた仲間がホアトウ率いる小公園らを切りに来る。レストラン内は大パニックになる。続いて、シャオスーが切り刻まれた死体を見つける。そのアジトの中には多くの死体が転がっている。彼は懐中電灯で風前の灯のシャンドンを照らす。彼はハニーを殺したのかと聞くが、彼の彼女であるクレージーが泣きながらやってくる。そして彼氏を抱える。だが、シャンドンは息を引き取る…。シャオスーは奥へと進む。画面はフレームアウトする。

続いて、シャオスーの家へ。そこへ私服ではあるが警察官らしき関係者の男が数人やってくる。父親を呼び、彼は服を着替えてくると言う。奥さんは息子が何かしたのと口走るが誰も答えない。そこへ息子が帰ってくる。父親は連行された。それを母から聞かされるシャオスー。翌朝、事情聴取を受けている父親。私はやましい事は一切ない、勤務があるから帰っていいかと言うが、もう少しここで休んでくださいと言われる。父親は昔のとある事情により捕まっている(この内容はネタバレになるため控える)。

続いて、ワンマオのElvis Presleyのポスターが壁に貼られている部屋にシャオスーが歌詞を持ってきて彼がその場でレコードを回して歌う。カットが変わり、学校へ。保健室でシャオスーがハットをかぶりカーボーイのものまねをしている。手の指を拳銃がわりにし射撃の真似をしている。そこへシャオミンがやってくる。彼は誰もいないよーと言う。彼女はこの間言っていたこと本当?と彼に聞く。彼はうなずく。シャオミンは私を騙さないでね耐えられないからと言う。すると彼はにっこり笑い彼女の頭にハットをかぶせる。そして顔を近づけて土曜日だしサボらないか?と言う。彼女はやめとくこれから時間はあるものと言う。再度彼はにこやかに笑う。そこへ鼻歌をしながら保健の先生がやってくる。

続いて、シャオフー率いるバスケットチームが試合をする。彼が本調子ではなくて仲間にどうしたと聞かれる。カットはすぐに変わり、シャオミンが懐中電灯を手に持ち軍隊の車を照らす。少し離れたところにはシャオスーがいて二人は話している。カメラはそれを固定ショットして軍用トラックが横切るのを同時に捉える。続いて、夜のシャオスー宅へ。父親がいきなり起きて誰だと叫び、みんなをたたき起こす。まるで何かに恐れているような反応である。息子たちは武器を持ち探せと言う。カメラはそれを固定ショットで捉える。母親や妹なども起きてくる。

続いて、保険の教員とシャオスーが汚い言葉を使ったことによりまた主任に父親が呼ばれ息子の行動について説教される。父親は次息子が減点されたら入学に響くからそれは不公平になるからやめてくれと言う。シャオスーはバットを手に持ち職員室の電球を叩き割る。一斉に職員室にいる教員がカメラに向かって目線を送る。カットは夜の帰り道。親子が自転車を引いて歩く。息子は父に退学でちょうど良かった。夏休みは編入試験だ、昼間学校に挑戦すると言う。父親は毎月私が禁煙すればそのお金でお前のメガネを月賦で買えると言う。カットが変わり、大樹の根の下でシャオミンとシャオスーが今後な話をしている。

続いて、シャオマーの自宅に二人がいる。シャオミンはシャオスーに向かって銃を撃つ。弾が入っていないと思っていたようで実際に弾が飛び驚く。その音に気づいたシャオマーが駆けつけて彼女を平手打ちする。カットは変わり、図書館でシャオスーが勉強している。そしてかき氷のお店にホアトウを訪ねてシャオスーがやってくる。ホアトウは昔の事は忘れてくれ、全部俺が悪かったと言い、どこを受けるんだと話しをする。シャオスーは立ち上がり去ろうとするが、ホアトウが呼びかけるとシャオスーは平手打ちする。

続いて、シャオスーの両親が食事に出て行く。すると母親の腕時計がまた見当たらなくなり姉貴が騒ぎ始める。そこへ父親の友人がやってくる。カットはシャオスーとシャオツイの会話を映す。シャオスーの兄はビリヤードで賭け事をしてお金を集めようとする。学校のテニスコート付近でシャオツイにホアトウと昨日会って随分と変わっていて、人は変われるんだなと慰められたと彼女に伝える。ここでシャオスーは彼女に真実を伝えられる。

カットが変わり、シャオスーの家へ。父親がろくでなしの兄貴を思いっきりぶっている。母親やお姉さんはもうやめてと泣きながら彼を止めるが彼は殴り続ける。それを外から眺める息子シャオスー。翌日、シャオマーの家にシャオスーがやってきてシャオミンの事について口喧嘩する。カットは変わり、学校の通学路の途中で、ワンマオが仲間同士で喧嘩するのはやめろ、俺のメンツを潰さないでくれとシャオスーに頼み込む。その夜。外でシャオミンとシャオスーは出会う。彼は君を馬鹿にさせないと言う。彼女は勉強に専念していないの?と呆れてものを言う。彼の手には日本刀がある。ここで物事の展開が大きく変わる重大な出来事が起きる…とがっつり説明するとこんな感じで、いつしかの釜山国際映画祭で台湾映画として初めてアジアトップ一〇〇の映画の第七位として選ばれた作品であるが、正直台湾映画はこの作品の他にも多く傑作があるが、間違いなくこの映画はアジア映画の中でもトップクラスの傑作だろう。

だが、プレスシートを読む限りだとアジア映画ベスト一〇〇に置いて東京物語、七人の侍、非情城市などと並んでベストテン入りすると書いてあるが、そうすると候孝賢監督の作品も入っているなと思ってしまう。どこかしら間違ってるような感じがするが、まぁ細かい事はどうでもいい。さて、この作品の見所を言うと、あまりの多さに何から言っていいか混乱してくる。とりあえず印象的だったのが、ワンマオと言う背丈の小さい男の子だ。彼は米国文化の憧れがかなりあって、Elvis Presleyやジョン・ウェイン主演の西部劇などを愛して止まない生徒である。また主人公の手足が長いハンサムなシャオスーが、時たま手に持っている懐中電灯と言うツールが、この作品には役立っている。それはエドワードヤン監督が描く光と闇を描いた中の"闇"の部分を照らす唯一の道具である。懐中電灯の光が照らすのは愛であり、暴力の世界だ。そして外省人として台湾と言う島で暮らす親世代の中国大陸への想いがこの作品からも伝わってくる。

すでにこの作品が作られた前に、候孝賢監督が撮った「童年往事 時の流れ」でも叔母が孫に中国大陸に一緒に行こうと言うシーンがあるのだが、やはり親世代の人たちにとっては中国大陸はーつの夢なのだろう。「悲情城市」が日本からの解放の後の台湾を描いた四〇年代を写したなら、この作品は六〇年代の悲劇的な台湾をスペクタクルに描いている。それにしても一人の少年とその家族とその環境を少年の目線で描いた大きなストーリーは、エドワード・ヤンだからこそ撮れたんだと思う。そもそもこの巨大な映画が何に想を得たかと言うと、六十一年に台北で起きた未成年の少年によるガールフレンド殺人事件に想を得たもので、自分がこんな小さな事件をここまで大きく表現することが絶対にできないと思っているので、いかに監督がすごいかが伝わってくる。

だってよくよく考えてみれば物語自体は単純明快だ。不良グループに属するリーダー格の男の女を好きになってしまったグループ内のいわば下っ端の主人公の少年が、彼女を好きになってしまう。またその少年の家族との関係性や友達との遊び、バンド仲間との交流、そしてグループ内での対立や違うグループとの対立を描く、そして思春期特有の残酷さを追加描写するだけの映画にもかかわらず、ここまで形を変えて観客におそいかかる感動と恐怖を創りだしたのは正直言って神のなす業だ。それらの内容を四時間掛けて作り出すのだから、アッパレだ。実際に監督は自らの製作会社を設立し、満を持して本作に取り掛かっていることを考えると、絶対にゆずれない作品だったのだろう。

物語が始まって三時間四十四分からクライマックスにかけての数十分の緊張感が凄まじい。もっと詳しく伝えたいがこの詳しい事は大いにネタバレになるため言えないのがもどかしい。歯がゆい。あのクライマックスのラジオから聞こえる合格発表者の名前、息子の着ていた学生服を洗濯する母親の後ろ姿、こんな破壊力抜群の余韻があるだろうか…この約四時間の映画ラスト三分で私は号泣した。それまでは目頭が熱くなる部分もあるが特に涙を流さなかった。だが本作の帰結は私の心をかき乱した…。

さて、ここからは登場キャラクターのそれぞれの良さを話していきたい。まず、主人公のシャオスーは優等生で物言いは優しいが、ふとした時にはバットで殴りかかろうとしたり、理不尽な事には襲い掛かる気性の荒さがたまに目立つ。続いて、ヒロインのシャオミンはシャオスーのことが好きなのかいまいち分からない。唯一の恋人はリーダーのハニーだが、色んな子と会ったり、関係をもつ素振りがある。転入生のシャオマーは裕福で不良達にも顔が聞くハンサムボーイ。彼が仲間と映画館に行って映画を見るときの表情は輝いており素敵なシーンである。ワンマオは小柄な生徒で、米国文化が大好き、歌も大好き、夢は歌手?兎に角プレスリー好きな重要なグループメンバーで、可愛らしい声で歌う。皆んなの人気者でもある。ホアトウはハニーが不在の隙にシャオミンやグループのリーダーの座を奪おうと画策する。最終的には人格が変わっていく暴力的な少年で、シャオミンが好きである。その他にも大勢の魅力的な登場人物がいる。それを全員ここで紹介すると少しもったいないのでやめておく。

この作品は人生ベストと言ってもいいほど好きな作品である。そもそも自分にとって二時間越えの作品は長く感じてしまう。長い作品というのは紙一重で、ベルイマンの五時間の作品「ファニーとアレクサンデル」や小林正樹監督の「人間の條件」タルベーラの「サタンタンゴ」の様に七時間超えの作品も大好きである。この四時間の本作もその紙一重の中の私にとっての勝者である。あえて同じ位の尺を持つ映画の名前は情で言わないが、ただ長くてつまらない作品も存在する。しかし、この作品らはズバ抜けている。私はこの作品が好きなのだが、何故か観る度に自分の何かが喪失してしまうような気分を味わってしまう。だから滅多に見れない好きな映画と言える。他の例を挙げるなら日本の"ふるさと"と言う歌が好きだが、あれを聴いてしまうとすごく英霊のことを思ったり、神風特攻隊(肉弾)のことを思ったり、その他色々と辛い事柄を思い出すため、素敵な曲で好きなのだが、あえて自分から聴くのを封印してしまう…そんなような映画である。

この作品で印象に残った場面をいくつか挙げると、まずクラスの教室に明かりをつけた瞬間にクラスから女の子が勢い良く廊下に飛び出るシークエンスである。その後これについての語り部が一切ない。あれは一体何なんだろうと観客は思うだろう。まるで宙づりにされたあのワンシーン、果たして一体何が、目的は…。それと主人公の少年の家が日本式の木造建築で、屋根裏から日本刀や当時住んでいたであろう日本人女性の写真などが描写されるのも面白い。確かに十九世紀末までの二世紀にわたる清朝の統治下で台湾人は生活していて、一八九五年の下関条約によって台湾は日本に割譲された歴史がある。ここからいわば植民地とされていき、日本の教育や文化を学んでゆく。そういった日本の影は他の台湾映画にも随所に描かれている。

それと少年が終盤あたりで〇〇を〇〇するショッキングな描写があるのだが、そのフレーム作りが圧倒的に好きである。薄暗い空、屋台の電球の光が光輝を放ち、何が起こったのかわからず自転車を乗りながら通り過ぎる男性や、女子高生たちが彼が犯した〇〇によって衝撃を受け、すぐそばにいる母親に事情を話す仕草などを広く描写した場面は印象的だ。そこから我に帰った少年が狼狽する場面、そこから連行され椅子に座られていた彼が暴れ出し、はいていたサンダルを吹き飛ばし〇〇と叫びながら画面上から連れ去られ消えていくあのワンシーン、そしてラストラジオから聞こえる名前と母親が手に持つ制服…無口で内向的な、良く言えばインテリで、悪く言えばマセガキのシャオスーが、この四時間の映画の中で唯一と言っていいほど子供らしさを見せた場面がある。それが保健室で先生のハットをかぶってウェスタンごっこを一人でした場面である。手をピースサインにして拳銃の形に整え撃つ真似、なんとも可愛らしくほほえましく、この作品で唯一戒厳令を忘れさせる数少ない場面で、私にとっては救われる思いだ。

それに小公園のレストランの天井から吊るされる旗の三種類である中華民国とアメリカ、国連の旗が意味する内容も印象的である。ワンマオが自分の歌声を録音したテープを渡し、それがゴミ箱へ捨てられてしまうショット、シャオスーの母親と父親が外で抱き合う場面、そのワンシーンから読み取れる外省人による台湾での生活の過酷さ、日本の植民地統治を経験した本省人との社会での適合の難しさが感じ取れるー場面で、特に少年の母親がふと口に出した"日本と八年戦って、日本家屋と日本の歌と"嘆くシーンでは正直びっくりするほどモヤモヤする心情になる。それは彼女は外省人であり、中国人として日本と戦い、一方では日本人として中国と戦った本省人が暮らす現状に生きているからだ…このシーンは衝撃を受けてしまう。何気ない数秒の独白がなんとも重いのである。

それに、子供たちによるヒエラルキーも親を通して非常に伝わってくる。例えばこの作品のヒロインであるシャオミンの家庭はかなり貧困である。また途中で転入してきたシャオマーは裕福なおぼっちゃまである。実際映画を見てみると、彼の家に主人公の少年が幾たびも上がり込むが、家は広々しており、最新の電化製品などがお披露目される。要するにこの作品は外省人の中のヒエラルキーを映している映画とも言える。特に軍関係者の父親を持つ子供たちの仕切り振りが強いのもこのランクの基準だろう。この作品は私はホラー映画とも言っている。戒厳令の中で生きる子供たちの不条理な、もしくは理不尽な生活から見えてくる残酷さが怖いのである。ネタバレになるためあまりストレートに言えないが、ハニーが〇〇になってしまった後の子供たちの会話から読み取れる話や、シャオスーの父親が警備総司令部に連行される件などは恐怖そのものである。

やはりこの作品が米国を始めとする西洋諸国でもヒットしたのはプレスリーの音楽や西洋文化に(といってもほぼ米国だが)の憧れやロマンスを描いているからと言う点もあるのだろう。戒厳令下の下でロックンロールに熱狂する少年たちの表情は脳裏に焼き尽くし、こんな暗い青春時代を過ごしてきた台湾の人々は、この作品をどのような思いで見たのか…先ほどこの作品は好きだが、見るたんびに自分の何かが喪失してしまうと感じてしまって、ものすごく辛いと言ったが、きっと自分が恋焦がれた映画がもはや現在に現れることがないことを本作を見るとつくづく思ってしまうからだろう。廃れる事のない、監督を目指す全世界の人らの手足を動かす原動力になる映画だと言う事は、もはや語る必要がないだろう。

候孝賢があらゆる映画祭で賞を受賞しているにもかかわらず、エドワード・ヤン監督の作品と言うのは"ヤンヤン"がカンヌ国際映画祭で受賞したのが唯一の有名どころの賞の受賞だろう。悔しい…。本作は私が生まれた九十一年に撮影されている。最後に九十三年に不慮の事故により十八歳の若さで急逝したシャオマー役のタン・チーガンにご冥福を…。
Jeffrey

Jeffrey