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ファニーとアレクサンデルの小のレビュー・感想・評価

ファニーとアレクサンデル(1982年製作の映画)
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YEBISU GARDEN CINEMAで開催の「ベルイマン生誕100年映画祭」に参戦し、デジタル・リマスター版となった上映全13作品をとりあえず鑑賞終了。マイ法則「名作は寝る」がここでもしっかり発動し、程度の差はあれ全作品でもれなくウトウトするという…。

まず最初に観たのか『沈黙』で、まあ言葉が通じないというのがアレかな、と思いつつもベルイマン作品って消化が悪そうな予感が。次に観たのが『第七の封印』で死神の表現が面白いけど…、よくわからない。

そこでグーグル先生の力を借りて調べてみると、ベルイマンは超有名な牧師にして、とても厳しい父に抑圧され、強い憎しみを抱いていたことが創作の原動力だったことを知った。

そういう視点で考えると思い当たるフシがあり、ベルイマン作品がちょっと面白くなってきた。調子に乗って、教科書を出版している清水書院の一般書で、「人と思想」というシリーズの1冊である『ベルイマン』小松弘(著)を読みながら、他の作品を観た。

本作は、町山智浩氏言うところの「これを観ればベルイマンのことがわかる『自己紹介映画』」(町山氏の特集上映作品解説動画)で、ベルイマン64歳の時に製作され、これをもって映画監督業を引退すると表明した(実際にはテレビ映画の制作に携わり、2003年には監督作として『サラバンド』を発表している)。

他のベルイマン作品に比べわかりやすく、面白い。<ベルイマンの友人でもある映画監督のシェル=グレーデがベルイマンに、なぜ君のような人生を楽しんでいる人間がそのような映画ばかり作るのかと尋ねた時に、ベルイマンは自分の映画人生の最後を飾る作品は、これまでとは異なった、不健全なもののないものにしようと考えた>(これ以降、引用元の表記のない引用は『ベルイマン』より)らしい。

ただ、長い。町山氏によれば1時間30分で描ける内容ながら、テレビ放映もあって5時間11分の長尺。これでは私が寝落ちするのもやむを得ない、と言い訳。とはいえ後半は面白くて時間の長さを感じなかった。作品の内容は観ていただくとして、<彼の後の映画作品の本質を形作ることになるエピソードを>。

<父エーリックは子供たちの罪に対して体罰をもって接し、これが幼いイングマールには耐えがたい屈辱となった。直接的にはこれが後に父に対する憎しみ、母親に対する哀れみとある種のコンプレックスにまで発展するが、間接的には聖職者に対する懐疑の念、さらには神の存在そのものに対するベルイマンの問いにすらなっていく。罰せられた屈辱感は、こうしてベルイマンに対してエネルギーを与え、創作の源泉をも形作るのである。>

<ところでメステル・ウーロフスゴルデンでの演出活動を開始してからしばらくして、ベルイマンは女友達と半同棲のような生活を始め、何日も家に帰らなかった。それ以前から厳格な父エーリックに対する彼の憎しみは増大し、爆発寸前までに達していたが、ある日父エーリックに女友達との関係を咎められるや、父と息子の緊張感は絶頂にまで達した。ベルイマンは父を殴り倒し、家を飛び出て、スヴェン=ハンソンの所に駆けこんだ。それから何年もの間、ベルイマンは父エーリックと会うことはなかった。>

エピソードは他にもあるけれど、父親との関係がベルイマン作品のキモであることは間違いない。牧師や権力者をこき下ろし、彼らが無力であることを描くものが多いけれど、それは父親に対する憎しみの表れ。ただ血は争えないのか、描いた父親は自分のようでもあるらしく、本作でも<アレクサンドルよりもむしろ司教の中に、自分のイメージがたくさんあると語っている。>

本作を観ればベルイマンがどんな人が大体わかるけれど、彼が制作してきた映画のイメージの変遷をまとめると次のようだろう。

はじめのうちは<ベルイマン個人の内面世界で作られた<別の世界>>において<個人的な記憶や精神的外傷>を表現した。その後<目に見えない超越者や信仰の主題>によって<映画はいわば、見えぬものについて考える契機を与えるものになった。><さらに芸術家の心の闇の中に、その主題を広げ(略)芸術創造と狂気の境界線にまで、映画の映像は入り込んでいくのである。>

自分を抑圧する父親をディスっていたけど、その延長で神のような絶対的な存在はないことを表現した後、自分の内面へと踏み込んでいく。

特集上映は思いの外、観客が入っている。YEBISU GARDEN CINEMAはスクリーンが2つあり、1~2週は収容人数の多い方で上映し、3週目以降は少ない方での上映となった。しかし、満席が多かったためか、最終週の予定だった4週目は多い方のスクリーンに戻し、さらに1週間の追加上映が決まった。エンタメでもなく、人気俳優が出ているわけでもなく、重苦しい内容がほとんどの彼の作品がどうしてこうも人気なのか。

他の映画監督が真似するような演劇的(?)な表現が記憶に刺さるような気がするけれど、自分的には共感し、身につまされる部分があるからだと思う。

ベルイマンのように大半の個人は<サルトルのような社会参加の思想には縁がな>く、外側の脅威には<何もすることが出来>ず、<ただ怯えるのみ>だが、<『ファニーとアレクサンデル』が端的に示すように、ベルイマンは自分の内面に入ってゆく芸術家であり>創作によって自分を見つめていく。

ベルイマンの作品を通じて観客も自分を見つめざるを得なくなる。親との葛藤、異性関係の悩み、心の支えの不在や外的脅威に対する不安などについてどうしたら良いのか、自分の存在は何なのか、あれこれ考える。

そして自己を見つめ抜いたベルイマンが辿りついた先は、本作の最後が示すような<いろいろあるけれど、人生楽しもうよ>(町山智浩)であり、<ま、そんなこと考えても埒があかないから、もういいや、ラーメンでも食おう>(内田樹)であり、<別に何も変わらなかったよ。ただ『茶』を一杯所望しただけさ。だってお茶を『飲』んで目を覚まし、いまを味わって生きる、それ以外ほかに何かすることがあるだろうか>(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶(著))である。

ベルイマン作品には、そういう境地に到達させてくれるかもしれない雰囲気が漂うから、なんとなく観たくなってしまうのではないかと。

今回の特集上映で観た13作品の採点は、いつかもう一度観たときにできたらいいなあ、と。なお町山氏も言っていたと思うけれど、ベルイマン作品を1作だけ観るならやっぱりコレでしょ。
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