タマル

砂の器のタマルのレビュー・感想・評価

砂の器(1974年製作の映画)
3.0
おっ、オカダ・カズチカ出演してんじゃーんと思ったら森田健作だった。何を言ってるかわからねぇと思うので、画像検索して比べてみてください。激似でした。

以下、レビュー。

いうほどいい映画か? ていうのが率直な感想です。
例えば、前半の捜査パート。ここに87分も時間かける必要ないですよね。本当に語りたい親子の“宿命”が55分(この尺ですらダラダラ長いのだが)なのに前振りに1.6倍も時間使うのはさすがにバランスが悪すぎでしょ。長すぎて寝ちゃいましたよ。寝てたところを巻き戻して見直しましたけど、やっぱり見直すほどの内容密度はなく、眠気を堪えるのに苦労しました。
この前半部って絶対40分以内にまとめられたとこですよ。だって、後半に改めて説明し直すんだから。前半の捜査が、後半明らかになるテーマと重なる描写になっているとかならわかる(それにしても1.6倍は異常だ)けど、別にそんなでもねーしよ。
ただ時間稼ぎしてるようにしか見えないし、その意図もわかりませんでした。

でも、後半は確かに面白くなるんです。解決編&演奏会&過去のイメージが並列して語られて、映像の切り替わりも激しく、異なる時間軸である演奏とイメージが幾たびか交錯するところはとても引き込まれます。
ただ、それだけに丹波哲郎の捜査室の(言葉通り)解説シーンのヌルさは本当に残念です。
捜査室で淡々と捜査結果を語る丹波哲郎。それに異論も意見も挟まず、ボケーッと見ている刑事たち。演奏や過去のイメージとリンクするでもなく、狂言回し以上の役割もない。
ここで私は何を見ればいいのでしょう? 少なくとも前半の捜査パートで今西(丹波哲郎)自身のキャラクターをしっかりと掘り下げていたなら、淡々と報告する今西の心情を観客が推し量ることもできたでしょうに。 心底残念ながら、今西のこの事件に対するこだわりや、継続捜査になっても追い続ける個人的理由などが描かれないため、今西が報告中に涙を流すという演出も唐突の感が否めませんでした。

事程左様に、本作は必要なところを抜かし、意味もないところばかりをダラダラと描く作品のように感じました。それが最も顕著なのは映画のラスト。
今西が見下ろすなか演奏は佳境に入り、全ての感情を込めた拳が振り下ろされる。[握り止め]である。一瞬、全ての音が止まった。
次の瞬間、沈黙を打ち破る空気の破裂音。客席が映る。スタンディングオベーションだ! だれもが感激の拍手を送り、会場は賞賛の音に包まれた。
犯人は落ちるようにしてピアノの椅子に座る。観客に背を向ける形である。やがて犯人の周りから音が消えていく。完全に無音になったところで、犯人の顔がアップになると彼の左目から一筋の涙が頬を伝っていった。


ここでプツッと終われば最高にカッコいいのに!!!


本作は事もあろうに、無音からまた音が回復していき(!?)、観客→演奏者→犯人→今西→観客→犯人 というわけのわからないカットバックを繰り出した後、「ハンセン氏〜」なんてやりだしてしまうわけです。
無駄! 完全に無駄!
蛇足とはまさにこのこと。最後まで意味のないことにダラダラと時間をかけてしまっています。
メインテーマを字幕で流すな! 見りゃわかるわボケがぁ!!

作品自体はアレでしたが、
冒頭の日暮れに影になった砂の器が風に飛ばされるカットのカッコよさと、壮大な自然を背景に架線上の鉄路を駆け抜けていく子供のカットの美しさと、加藤嘉の演技で、このスコアです。
欠点は明らかに多いが、印象に残る映画。興味のある方にはオススメです!
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