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フィッシャー・キングのninjiroのレビュー・感想・評価

フィッシャー・キング(1991年製作の映画)
4.5
人生なんて永い永い夢だと誰かは言う。夢のまた夢、夢から覚めた先の夢。夢の中の私たちをマペットだとするならば、過去も未来も永劫に、指切りの契りを交わすことのないマペティアの指は一体、誰のものだろう?
夢の始まりはいつも靄の中にあって、起き抜けの朝よりももっと深刻に、塗り潰された真っ黒が陽の光、雨や風やの力を借りた風化を経て後、やっとグレーの空の下、徐々に生気を取り戻す六月、君はどう思うだろう?

人は暗闇の中を彷徨う時、必ず明かりを求めて歩くものだ。それが例え其の場凌ぎにしかならないと解っていても、そこに向かう方角が明らかな遠回りだと知っていても、その明かり背を向けて歩くことは出来ない。
ラジオの向こうのジャックをただ一人の友人と思い込んでいた男、冒頭ショットガンの無差別乱射により多数の罪なき命を奪ったエドウィンにしても、極端にその明かりに依存した結果の一例であり、本作に登場する殆どの人物は同じく暗闇を彷徨う迷い人である。
中でも暗闇の中に閉じ込められながら明かりを求める事を永遠に封じられたパリーは、ロンギヌスの槍により癒えぬ傷を負った聖杯伝説のフィッシャー・キング宛ら、滅びゆく暗闇の王国ニューヨークを夢うつつに彷徨い歩く。地上から眼を逸らすように摩天楼は高く切り立ち並び、「誰に向かって話してるんだい?」劇中何度も繰り返されながら、虚空に向かい、冷めたラザニアを前に、言葉は誰に向かうともなく惨めに落ちて風に流される。谷間の王国には幾ら掃いて捨てても足らないほどの言葉が塵芥のように路上に溢れている。誰が選んだんだろう、運命のように恋に落ちる相手を。誰が引き寄せたんだろう、同じ運命の直線上に立つ人を。誰が引き裂くんだろう、ただひたすらに誰かに捧げられることだけを願うこの心を。

グランド・セントラルのコンコースは眩いボールルーム、大理石の上を優雅に流れる人波の中には麗しきブロードウェイの女王、見たことあるかいこんな光景、どんな人混みの中でも見つけられる、どんな些細な癖だって見逃さない、どんなに小さく埋もれても、この路上に宝物はきっとある、今夜、この瞬間も夢のまた夢のちまた、この夢から覚めたらまた全てが夢の中だったとしても、
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