SatoshiFujiwara

さらば夏の光のSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

さらば夏の光(1968年製作の映画)
3.7
『トーキョーノーザンライツフェスティバル』にて久々の再見(満席、立見も出た盛況ぶりでした)。何で吉田喜重で北欧なのかと言えば本作の舞台としてスウェーデンとデンマークが登場するから&制作から今年で50年だから、だが前者についてはいささか強引な気がしないでもない(笑)。話の大半はパリ、ついでリスボンだし。

これ、元々割に好きな作品ではあったのだがやはり50年前という時代と吉田の世代をもろに感じさせるような内容だなぁ、と思いましたね。横内正演じる川村は学生時代に長崎の寺院で見た教会の写生図のあるかどうか分からない「本物」を探しにヨーロッパを彷徨っていて、その中でポルトガルはリスボンで岡田茉莉子演じる鳥羽直子という人妻と遭遇、恋に落ちる。実は直子の生地も長崎で、そこで母親と弟を失ったという体験があるが、それを忘れる/なかったことにするためにヨーロッパにいる。もう日本には帰らない/帰れないとの決心。いかにも観念的な2人の会話、相手に話しかけているような文体ながらモノローグであるという設定の多用。メロドラマ的な体裁を取りながらもメロドラマを脱臼させる力が常に働いている。くっつきそうでくっつかない。くっついても離れる(これ目当てだった当日の吉田喜重と岡田茉莉子によるアフタートークで、吉田は傑作『秋津温泉』について「反メロドラマ」だと言っていたが、本作もJALからの依頼作品だとは言えこの吉田の「反」への指向性が如実に出ている。小津安二郎を考えるに際して外せない吉田の名著は『小津安二郎の反映画』だ)。

ここで川村が探している教会というのは西欧的なアイデンティティであり自我のことだろう。直子は「男の人はいつも何かを探しているのね。私は過去の記憶をたまに思い出すだけだわ」みたいなことを言う。悟性とロゴスで世界を認識する枠組みを必要とする男、より自由な女の対比。あるいは全能の神と卑小な人間のそれ(川村と直子はスペインのとある道で姦通した妻を刺した男と義妹の言い争いに遭遇する。男は言う、「姦通した妻を許せない。真実は神様が知っている」)。この対比は今見ればいかにも図式的なんだが、先述したアフタートークで吉田は「当時は男尊女卑の思想がまだあったんだが、自分は女性を称揚する作品を撮った」(大意)と語っていて、やはりそういうことだよなあ、と。見下すと同時に畏怖と憧憬の対象たる女性。「私にとっての寺院はあなただった」と川村が直子に言う時、ここにロマン主義的思考の残滓を感じ取ることは難しいことではない。この男女にとって共通する記号である長崎と寺院。男はそこに拘泥し、女は忘れる(忘れようとする)。レネ&ロブ=グリエの『ヒロシマ、モナムール(24時間の情事)』と『去年マリエンバードで』と非常に似たテイストの作品だとも再認識した。やっぱ影響受けるもんなんだろうな。

まあ理屈はともあれ非常に美しい作品で(モンサンミッシェル、そしてリスボンの白い町並み。ローマやアムステルダム、マドリードも登場します)、それはロケーションと共に撮影の素晴らしさによるところ大。度々流れるセンチメンタルなピアノ音楽は少し恥ずかしいが、時代性と内容を考えれば納得。一柳慧のモダンチェンバロを用いたいかにもゲンダイオンガクみたいな不安な情緒を醸し出すヤツが良い。微妙なむず痒さはあれど依然好きでした。
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