純

サクリファイスの純のレビュー・感想・評価

サクリファイス(1986年製作の映画)
4.0
今まで観た中で一番圧倒された映画かもしれない。ある意味じゃこの上なく映画らしいのに、カメラワークや時の流れのスピードが独特で、まるで演劇のような作品でもある。内容は超越しすぎていて、そしてあまりに宗教的かつ哲学的で私には手に負えないテーマだということだけは分かった。何とも言えない不思議な感覚を観客に与える、というか残していく映画なように感じた。実際、この作品はタルコフスキー監督の遺作だということだし、この世界観が彼の思想や哲学、人生の集大成だと考えると、もう偉大すぎて何が何なのか分からなくなっちゃうな。初めてのタルコフスキー監督作品にこの作品を選んでしまったのが良かったのかどうかも判断しかねる。

題名が表す「犠牲」はもちろん今作における重要なポイントになるけど、犠牲そのものというよりは、犠牲と救済の関係性を描いてるんじゃないかと思う。そもそも、犠牲というとどうしても「犠牲者」のような意味合い、つまり、無実にもかかわらず理不尽にも被害を受ける、といったイメージを持ちがちだけど、この作品の表す犠牲は明らかに、より大切なもののために自分の大切なものを捧げること、のほうであるはず。そこまで考えると、最初と最後の額縁構成とも言えるだろう「言葉」についての哲学的台詞や、神を信じて救済を求める者の救われなさの皮肉的結末が染みる。染みるというか、痛い。苦しい。

神を信じたことのないアレクサンデルは妻と不仲で、手術のため一時的に言葉を発することができない息子に冒頭でえんえんと自分の哲学を語る。「毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に同じ一つの事を儀式のようにきちんと同じ順序で、変わることなく行っていれば、 何かが変わる」無信教ではあっても、彼には彼なりの信念があって、それも宗教的なように感じたし、何となくギャツビーを思い起こさせるなあと思った。結局ひとは何か信じられるもの、すがれるものがほしいのでは…ということは『神のゆらぎ』で感じたことと重複するため割愛するけど、この作品での、別の信念を持つひと同士が、少なからず相手側の思想を否定している、その柔らかな拒絶が独特の緊張感を生んでいたように思う。そして、ギャツビーをも思わせる純粋な信念ほど、現実に裏切られたときにひとを破滅させるものもないなとも。あまりにハイリスクハイリターンな「信じる心」の切なさ、儚さ、頼りなさが胸を打った。

「ひとは何かを待っている。それは駅のホームでの気持ちに似ている」ああ、そうかもしれない。信じる心も結局はそこに行き着く。終着駅は明らかな救済か絶望しかなくて、私たちは皆前者を待ち望んでいる。何もせずに得られるとは思っていないから、神を信じるものは御言葉を聴き、信じ、御言葉に沿って行動する。そして救済を待つ。信じる自分が救われる瞬間を待ちわびながら、命をどんどん削り、燃やしていく。無神論者だって、アレクサンデルのように、習慣という儀式がもたらすであろう救済を願っている。神の存在や宗教の正誤を問うているようで、実はどちらにも差はないんだって伝えているんじゃないかと言ってしまっては、あまりに暴力的すぎるかな。

話を戻すと、元々分裂気味だったアレクサンデルと家族は、核戦争が起きるという知らせでパニックを起こしてしまう。崩壊しそうな家族と人生に絶望したアレクサンデルは初めて神の存在を受け入れ、家族を守りたい、そのためなら家族と断絶すること、家を燃やすこと、自分に欠かせない独白を封印すること、つまり言葉を一生涯口にしないということ、これらの犠牲を引き受けることを誓った。ここからは現実味がなくて一種のファンタジーのような展開になるから、頭の上にクエスチョンマークが増え続けていったんだけど(笑)、スローなカメラワークやキャストたちが真正面を向いて語りかけるようなカットが不気味で(画面が暗くて中盤まで登場人物たちの顔が見えにくく曖昧なのも新しいけど不安を掻き立てる)、雰囲気に酔いそうになる。

結局、本当に神が彼の言葉を受け入れてくれたのかどうかがはっきりしない。彼の夢だったのかもしれないし。でも、彼が抜け出せたもうひとつの世界の代償として、アレクサンデルは近いの通り犠牲を払わないといけない。「犠牲なくして何の贈り物でしょう?」とは、アレクサンデルの誕生日祝いに贈り物を届けてくれた友人の言葉だけど、この言葉はひとつの軸としてこの作品を突き通している。一番大切なものを守るためには、その次に大切なものは諦めないといけない。そしてその犠牲となるものは常に自己犠牲。ひとはどんなに報われなくても、自己犠牲でときに誰かを、何かを確かに救いたいと願い、祈る。それしか方法がないから。できることがないから。人間の抱える罪と罰、光と闇をメタファー的にとことん芸術的に仕上げた圧倒的な作品だった。

言葉を放棄したアレクサンデルが守り通した息子は、もう少しでその言葉を発する声を手に入れる。犠牲となったものは別の人間に宿り、そしてきっと、ひとはこの連鎖を繰り返す悲しい生き物として命を燃やしていくんだろう。この作品がタルコフスキー監督から実の息子への希望をかけた作品であるエンドロールを踏まえると、作品だけに収まらない強く悲しい意志を感じた。結局、物語でも現実でもひとは救われないのかな。

救済と犠牲を主として扱った作品ではあるけど、「愛し合っていても愛し方は違うのね。片方が強く、対等になれない」も印象的な台詞だったので記録しておこうと思う。自分の人生は後悔ばかりだった、望まないことばかりだったと独白する妻の悲哀と絶望に満ちた数分間も観るひとを魅了する。

本当に掴み所のない作品ではあるし(とは言ってもひとによってはタルコフスキー監督作品の中では一番観やすいとの意見もあるし、一概には言えない)、初めて観たら「何だこの作品?」ってなるくらい芸術度が高い。でも、絶対に観たひとが何かに圧倒され、何かを感じ取られる作品であることは、間違いない。
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