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神阪四郎の犯罪のTnTのレビュー・感想・評価

神阪四郎の犯罪(1956年製作の映画)
3.2
 どこまで嘘なのか。客観的事実が判明しないので、色々な人物がエゴをぶつけあう。見応えのある演技と二転三転する事実は見飽きないが、少々説教がましい。エンターテイメントであろうとしているが、所々ボロがある。

 音楽、重厚だなと思ったら伊福部昭だった!冒頭は入り込めたんだけど、この重厚さと裏腹に物語は薄味。

 「まさかそれが〜になろうとは」という台詞の臭さ。法廷に子供が入るタイミングもあざとい。観客の意思の誘導がちょっと露骨でいやなところあり。なんか昭和独特の言い回しを味わえて、それはそれで面白かったが。

 演技のコロコロ変わる様は面白いけど観客を突き放していく。真実はどんでん返し的に変化するが、結局どちらが真相かはわからないまま。人間には一貫性欲求があるというのを聞いたことがあるが、ただその欲求を折っただけで、それ以降観客は映画から突き放される結果となった。森繁久弥の怪しい男の演技がハマりすぎて、誠実な男が似合わない。

 エゴイズム。邦画のこうした法廷劇ではエゴイズムは悪として描き続けられているように思う。今作品のエゴによるそれぞれの主張のぶつけ合いは、まんま「羅生門」といってよいだろう。それでいてやはり「羅生門」の二番煎じで止まっている印象。そして、「羅生門」が結局はみんな真実か嘘かはわからなくて、それでも信じてみようじゃないかという希望を残しているのに対し、今作品はエゴイストたちを激しく糾弾する。そこに希望はないし、「みんな嘘ばっかついてる」という台詞で今作品は幕を閉じるのがいやらしい。みんなエゴイストならもっとお互い信じて寛容に生きたいとつくずく思う。また自殺した女、ちよの演技が「羅生門」の京マチ子のそれだった。

  嘘だ真相だという問題は不毛すぎて好きじゃないし、映画という虚構がはたして嘘つきを糾弾できるのかは疑問であった。ラストの神阪の弁明は説教臭く、いかにも真実はこうだと言わんばかりに言っているのが気に入らない。とにかく「こうあれ!」と押し付けがましい説教だった。みんなエゴイストといっておきながら絶対的な正義として神阪を描くことの矛盾。最後に神阪が「なんてね」と微笑んで護送車に乗り込んでいたら、「ジョーカー」並みの傑作になったに違いないだろう。
 
 ラストの弁明を引きで見ると冷める。クレーン撮影が多用されて視覚的に楽しませてくれるが、必然性はないように思えた。あの弁明のシーンで引いたことで、神阪の演説する様のおかしさが際立ってしまったように思える(それは今作品の意図にそぐわないように思える)。

 結局真相はわからない。か・・・(陳腐な片付き方だった・・・)。なんかエゴイストたちを糾弾したくなるのはわかるけれども、あんまりにも愛がないというか、救いがないというか。エゴイストでも悪人でも魅力的に描くスコセッシの作品が好きなので、やっぱり最終的に勧善懲悪で収まってしまうのはもったいないというか、物足りない。なんかこうした薄い倫理観を振りかざされるのは作品としても奥行きを失うし好きになれない。最近見た「レイジング・ブル」も「掏摸(スリ)」も、犯罪を犯してもなお許される愛がある。日本だけなのか、こうした映画に対して「自己責任でしょ」とレビューするのは?「自己責任」の歴史と勧善懲悪的ノリが1950年代から根深く残っていることを知って若干絶望。また、未見だが「それでも僕はやってない」と今作品は同じというレビューを観て、この手の法廷映画のジャンルが根強いことがわかった。だから黒澤の「羅生門」や「天国と地獄」は見応えがあるとも逆説的にわかった。
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