ろく的アジア国際映画祭②=ベトナム=
初めて見たときは大学生の頃だったと思う。飯田橋のギンレイホール。あまりに退屈だと思い何度眠気にかられたか。そこから30年、ずいぶん映画を見る目も変わってきたなぁと久々に観て思う。この映画は伝統と資本の相克だと感じた。
話は前後半に分かれる。前半は主人公、ムイが10歳のとき。地域の素封家の家に奉公に出たムイはそこで住み込みで暮らす。まずそこの生活が圧倒的に「何も生み出さないこと」に驚く。そもそも金持ちは何故金持ちか。それは彼らが「金持ち」だからだという身も蓋もない理論にいきつく。僕らは不平等で最初からカードが決まっていた、それが伝統社会だ。奉公先の人間が実に「何もしてないこと」「何もしないのに生活していること」に驚く。さらには「何もしてない人」を尊敬する周りの人たち。そう、世界は不平等で回っている。そしてそれを今の僕らは「いけない」という、でも待ってくれ。そこは桃源郷じゃないのか。
そうなんだ、まずこの前半パートであるムイの奉公先がなんと「美しい」ことに僕らは息を呑むんだ。淫蕩と退屈。その中で生み出される美。どのシーンをとっても完璧だ。その美しさに僕らはこう錯覚してしまう。やはり「伝統」は大事なんだ。それが差別を、貧富を、簒奪を生み出しているのかもしれないのに。でもそんなことは関係ない。伝統は「伝統」としてリスペクトされる。
でも実は素封家の家庭にも問題があった。ただ無為に暮らしていたのではないのだ。この暮らしをすることに昔は全く問題がなかったのに(なかったからこそ祖母はなんでも我儘で振る舞う)、徐々に資本の問題が入ってくる。あれだけ生活に苦しんでないはずなのに実は家計は火の車だった。伝統は「資本=貨幣」に変えられていく。そしてムイも暇を出される。
そして10年後。そこは自由/資本があるベトナムになった。自由恋愛も当然のように行われる。この後ドイモイなどの経済刷新運動が行わることとそれは並行だ。10年後のムイは今までの身分を(あまり)気にしなくなる。奉公先の旦那との恋愛まで。そしてここまで見たときに僕はあっと声をあげる。美しくないのだ。あれだけ美しい映画だったはずがこの10年後のシーンではなんとも造作のない書き割りな世界に見れてしまった。そして僕の中でも混乱が生じる。伝統=封建制=不自由な国から「美」が生まれ、自由=資本主義=平等の世界からは「美」がなくなってしまう。そのグロテスクな対立に混乱する。美と自由は共存しないのか、そんな気持ちまで抱かせてしまう。最後のムイの笑顔は僕にはなんと邪悪だろうと感じてしまった。そこに鎮座するのは「自由」を基本にして全てを獲得してしまう(幼かったムイには全く見られなかった)醜悪さだ。美しさはなくなり威圧のみ(それは笑顔の威圧だ)残る。
※この映画が実は全てフランスで撮られたことを後で知った。そう、美しさはもう戻ってこれない。そして戻ってこれないから美しいと思う考えは実に西洋的なんだ。つまり西洋は「東洋」に行きたくないけど美しい別の世界として「見ていたい」のだ。E.サイードが「オリエンタリズム」で喝破しているように、そこは尊敬の念を持って(しかし)誰も「生活しない」。
※この世界を10歳の少女を主人公に撮られたことも実に興味深い。少女は「性」からは外れながら「性」を想起させるメタファーだ(それは実にグロテスクなことだけどね)。伝統世界では必要な装置である少女が、成人したとき、そこが「伝統でなくなる」。ポルポトの例をとるまでもない。非常に残念なことだけど「伝統世界の美しさ」は性を排除した少女を利用する。でもそこに美がある。それに抗うのは正しいのか正しくないのか。
※小津映画を何度も想起してしまった。そういえば小津も伝統から引きはがされる人々を静かに描いた映画だ。僕自身今の世界を肯定しながらもそれに抗いたい気持ちがある。そんな僕にとっては小津も本作品も肯定せざるえない。でもそれって……、よくないのは分かっている。