YasujiOshiba

シェルタリング・スカイのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

シェルタリング・スカイ(1990年製作の映画)
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積ん読状態だったBDにて。ヴィットリオ・ストラーロの撮影を見たいというなぎちゃんのお相伴。

映像はやはり抜群によい。ドリーとクレーンを巧みにつかい、ステディカムを多用した浮遊する映像が、砂漠のひろがりを見事にとらえている。それから黄色とブルー、すなわち昼間の太陽の夜の月のカラーコントラスト。

前回ベルトルッチ祭りをしたときは、アジア三部作の真ん中にあるこの作品は飛ばした。見たからというもあるけど、見ると混乱しそうな気がしたからでもある。実際、見なくてよかった。これを見てたら一度道に迷うことになったはずだから。

おそらくぼくは、最初に見たとき、映像に圧倒されがらも、この物語を読み切ってはいなかったのだと思う。確かに男と女のシンプルなラブストーリーなのだけど、そのシンプルさの向こう側に隠された葛藤は、ストレートな僕ちゃんには理解の外だったのだ。

でも今なら、淀川長治が絶賛したのがよくわかる。"よどちょう" 節の「あなたこれ名作ですよ、ぜひごらんなさい」という健全な響きは、とりわけ性愛の傾向についてはことはシンプルじゃないという含みを持っていたのだろう。

ベルトルッチはそこを水増しして、ほとんど味をわからなくしている。わからなくしながらも、示唆されていないわけではない。マルコヴィッチ/ポートの遠くを見る眼差しも、ウインガー/キットの他の何かを弄ろうとする指も、交わらないことが分かっていて交わることを求めるような、諦めうえに成り立つ他ないのかもしれない。

それはドキュメンタリー『ポール・ボウルズの告白』(1998)のなかで「ポールとキットが性的にうまくいかなくなった理由は、小説では論理的に説明されていない。[...] 《君を愛しているけど、僕はゲイだ》と打ち明けたら別の衝撃があっただろう」(ジョー・マクフィリプス)という言葉が聞かれるけれど、それは野暮というものだろう。

もうひとつ、同じドキュメンタリーのなかでポール・ボウルズがベルトルッチのラストシーンについて「だめだ。早くローマに帰りたかったんだろう。完成を急いだ。最後はばかげている。ほかもひどいが、最後の部分は許しがたい」と言っているのも気になるところ。

因みにウイリアム・バロウズに言わせると最高だというボウルズのラストシーンはこんなだという。

「下を見ると港の灯が視野に入りはじめ、おだやかに揺れ動く水に映ってゆがんだ。それから、もっと貧弱な建物がおぼろげに姿をあらわしはじめた。通りは、いっそう暗くなった。アラブ人町の外れへきて、あいかわらず満員の電車は大きくU字形を描いて回り、そして停車した。そこが終点だった」

小説としてはみごとだ。そしてボウルズが言うように、それは風景の描写ではなく、あくまでも頭のなかで、言い換えるなら、言葉のうえで終らせる終わりかただ。

そこにベルトルッチは、ボルズ自身を冒頭とラストに登場させると、ウインガー/キット(そしてジェイン・ボウルズ)の物語をそこから始め、そこで終わらせようとする。奇を衒うようでいて、少なくとも何も知らない若造だったころのぼくには、そこから世界が開けるような映像だったと思う。

ポイントは、ポール・ボウルズその人の存在なのだ。それはまさに、シェルタリングスカイというタイトルそのものが象徴的に語る。空の外には何もない、ただ暗い世界が広がっている。しかし空があるから、空に守られながら、私たちは生きていける。まさにシェルタリングスカイのもとで。

ここにあるのは、強烈なニヒリズムと実存主義的。それこそは、ベルトルッチが求める、カトリックではない、そして共産主義でもない、そして自作の『リトルブッダ』で、チベット仏教のなかに見出すあるしゅの運命論的な諦めの境地のようなもの。

そういうものを、ベルトルッチはあのラストシーンのポール・ボウルズの瞳のなかに、探していたのかもしれない。
YasujiOshiba

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