クロ

宇宙飛行士の医者のクロのレビュー・感想・評価

宇宙飛行士の医者(2008年製作の映画)
4.7
旧ソ連の有人宇宙飛行計画はアメリカとの開発競争に先んじるため急ピッチで敢行された。1957年初めてロケットに搭乗した不運な犬ライカは生きて地上には帰らなかった。犬を乗せた飛行に成功したのは1960年9月のこと。続く1961年3月「イヴァン・イヴァーノヴィチ」と名付けられた人形が打ち上げられた。痛ましい姿ではあったものの無事帰還と不問にされた。そして1961年4月、ボストーク号が人を乗せて飛び立つと決まった。

打上のおよそひと月前、医師ダニエルは飛行士の候補生たちに付き添い心身をケアしていた。しかし彼の仕事は帰るあての無いロケットの操縦席にくくりつけるにふさわしい飛行士をひとり篩にかけることでもある。地球の周回軌動を1時間50分かけて遊覧して戻ってくるだけの巨大な鉄の棺桶を飛ばすことに命を賭す意味があるのか?そう問うても国家の威信をかけ無尽蔵の経費を投じたプロジェクトの巨象の歩みを最早誰も止められない。進むべき道はない、だが進まねばならない。そう嘯きながら医師も飛行士も国家の善良な犬たらんとする。

ダニエルはカザフスタンにある宇宙基地に向けて発つがそれらしい施設やロケットは一向に現れない。先々では薄暗くぬかるんだ荒野が寒々と広がるばかりだ。兵士、飛行士の候補生、医師と思しき人々が集うが、彼らは咬み合わない会話を交わし、行き違い、ひとりごち、雑務をこなし、緊張感の無い訓練や戯れに興じ、、風景を徘徊する夢遊病者のようだ。妻ニーナは困憊した夫を案じ後を追う。途上で彼女は、軍人たちが廃墟となった旧収容所を過去の遺物と称し焼き払い、そこに生きる犬たちを射殺する場に出くわす。”犬死に”はダニエル、飛行士たちを苛むもののたとえでもあるのだろう。この荒野はかつてあった生の記憶と未来への希望の吹き溜まりに見えた。

やがて、閃光が走り、もうもうと煙を吐き、音もなくロケットが飛び立つ。地上に生きるものに対する神々しいばかりの他人顔で。

作品から伝わる透徹した哀しみにはタルコフスキー好きなら心奪われると思う。幾人かのロシア圏の監督にも通じる水脈のようにも思われる。畏敬の念に堪えない。

ダニエル役のメラーブ・ニニッゼと妻役のチュルパン・ハマートヴァはルナ・パパ以来の再会だ。チュルパンさんは、憂い多き妻を演じるにふさわしい大人の女性になっていた。時折若かりし頃の愛らしさをのぞかせる。彼女はロシア国内では2014年のソチオリンピックでニキータ・ミハルコフと共に五輪旗を持って入場するなど国民的女優のようだ。作品に触れる機会が少ないのは淋しいが、活躍されていることが知れてそれだけでも嬉しい。
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