蛸

暗黒街の顔役の蛸のレビュー・感想・評価

暗黒街の顔役(1932年製作の映画)
4.4
長回しによるオープニングシークエンス、口笛を吹く犯人の影のみを映した犯行場面とくればフリッツ・ラングの『M』が想起されます。(『M』はこの映画の前年公開ですが影響関係はあったのでしょうか。もしくは、映画に音がついた時ホークスとラングが同じ演出を思いついたと考えると面白いです。)
これは、映画がトーキーになったばかりの時期の作品で、劇伴はありません(劇中歌はありますが)。音楽もなく物語は淡々と進んでいくにも関わらず映像の持つ軽快なテンポにグイグイ引き込まれます。
劇伴の不在により必然的に、音響の力は銃撃音において炸裂することになります。実際、この映画ほど始終銃の音が鳴り響いている映画は(当時は)珍しかったのではないでしょうか。マシンガンの震える銃口とカレンダーが一気にめくれていく様子を二重露光で同時に映して時間経過を表現するというショットが印象的でした。(時間経過のショット一つとっても銃撃です)

この映画にいくら銃撃描写が多かったとしても(ヘイズコードの時代ゆえに)直接的な暴力描写は画面に映りません。しかし『ノワール文学講義』の中て諏訪部浩一さんが言っていたように、映画においては「何かを映さないことはその代わりに何かを映すこと」なのです。基本的には人体欠損描写の不在は、ド派手な弾着描写で補填されますがそれだけではありません。
7人の人間を壁に向けて立たせ、一気にマシンガンを掃射し、殺してしまうシーンでは壁に映る7人の影がシーンの印象を鮮烈なものにしています。更には、7人の影がバタバタと倒れたところでカメラが上に上がると(主人公トニーの頰の傷である)バツ印の並んだような模様の梁が映し出されるのです。(トニーのアイデンティティとしての十字模様は、死体に当たる光として彼の犯行を印象付ける小道具としても使用されているようにも見えます)。
トニーたちがボウリング場を襲撃するシーンでは銃撃音とともにボウリングのピンが倒れるカットが挿入されます(最後の1ピンが中々倒れず、まさしく「風前の灯火」の映像表現がなされるのです)。
他にも、トニーが、かつてのボスを部下に殺させるシーンでは、トニーの悲哀に満ちた背中を映すなど、直接的な暴力表現が出来ないことを逆手に取った映画的に非常に豊かな演出が端々でなされています。

酒の密売権をめぐる抗争において暴力を資本にして、成り上がっていくトニーはある種アメリカン・ドリームの体現者でもあります。膨らみすぎた風船が破裂するかのように、その前途には破滅が待ち受けていることが明白であるにも関わらず、成功の階段を登り続ける彼の姿は「痛快」が具現化したかのようです。(実際にラストで彼は階段を降りるのですから)その彼のキャリアにおける重要な指標となっている「The World is yors」の看板はラストシーンにおいて、その意味するところが消失したことで、栄枯盛衰の無常感を漂わせます。
トニー以外のキャラクターも印象的です。間抜けな秘書との漫才のような掛け合いは、この映画を陽気なものにしています。この秘書を始めとして、コインを投げたりの手遊びが好きな部下のリナルドや敵方の正義感溢れる刑事などなど。
彼が、度を越したシスコン(ほとんど近親相姦的な)とリナルド殺害の容疑で破滅に向かうというのはなんとも皮肉です(彼の暴力が内に向いた瞬間、彼の帝国は崩れ始めます)。
仲間の死で一旦は失意の底に沈んだトニーも妹と会うことで息を吹き返します。窓から警察の包囲網に向かってマシンガンを掃射するトニーの姿は、以降のギャング映画のアイコンとなるだけの魅力に満ちています。
警察のガスによって「向こう見ず」な男の視力が本当に失われてしまった時、彼は破滅に至ります。
ギャング映画の主人公は倫理的要請(そもそもこの映画公開時はギャングの全盛期だったのです)によって物語内における凄惨な死を運命付けられていますが、それは逆説的に彼らの死に様を英雄的なものへと高めます。
つまり非常にモラリスティックな「もう一つのエンディング」は、スカーフェイスには全く相応しいものではないということです。

デパルマ版の『スカーフェイス』における重要な要素の数々が既にホークス版で発現されていたということに驚かされました。
後のギャング映画史を鑑みればこの映画の影響力の大きさが実感できます。
蛸