Jeffrey

私が女になった日のJeffreyのレビュー・感想・評価

私が女になった日(2000年製作の映画)
4.8
「私が女になった日」

冒頭、コバルトブルーが眩しいペルシャ湾に浮かぶ不思議な島、キシュ島。浮遊空間と自由な魂、厳しい現実、イヴ、鹿、妖精。自転車レース、離婚調停人、老女。今、美しい原風景の中にひとつのファンタジーが出現する…本作はマフマルバフ・フィルム・ハウスが制作した2000年の映画で、東京フィルメックス映画祭にも出品された作品だ。後にベネチア国際映画祭で最優秀新人監督作品賞まで受賞している。監督は彼の妻であるマルズィエ・メシュキニが担当した3つのオムニバス映画である。この度、廃盤のDVDを購入して初見したが、傑作だった。こんな素晴らしいオムニバス映画は滅多にない。映像の色彩や奇想天外なユーモラスある美的センス、演出は最高の一言だ。まずは物語の始まりである1話に言及する。

第1話 「ハッワ(イヴ)」

この作品は冒頭から引き込まれる。愉快な民族音楽が奏でられる中、1つの家族が映される。街の少年がアイスを買いに行こうと少女に遊びを誘うが、母親は遊びに行ってはダメだと頑なに断る。だが、娘はどうしても遊びに行きたがっている。少女の名前はワッハ。少年はモスクで待っているからと言い、その場を去る。そして祖母と母は娘に試着させる為のチャドルを手作りしている。彼女は今日が9歳の誕生日である。この国では9歳の誕生日を迎えた少女は今まで遊んできた男の子たちと一切遊ぶことができなくなる。少女が生まれたのは今日の昼1時である。まだ午前中だった為に、少女は何とか最後に遊ばせてくれと親に頼む…と簡単に話すとこんな感じで、流れ的にはイランでは、女の子が9歳になると大人の女性として扱われる。第一段階にチャドルと呼ばれる大きなスカーフを頭からまとって、髪を隠さなきゃいけなくなる。そして今まで楽しく遊んでいた男友達とは気軽に遊ぶ事が認められなくなる。こうした様々な戒律の元、彼女に与えられたたった1時間と言う大切な時間で彼女は男友達の少年ハッサンと最後の時間を過ごす。

この作品には印象的な事柄が3つある。まず1つ目は時計を持たない娘がどうやって時間を把握できるかと言うのを祖母から教わった木の棒を砂山に刺し、影が短くなったら時間がどんどん減っていって、影が完璧になくなったら戻る時間だよと原始的な方法を教える。2つ目は島に住む少年2人が自分たちで作ったイカダで、娘を同行させようとする時のアプローチの仕方である。3つ目が当初、モスクで待っているねと言っていた少年が宿題をしないが為に、母親に家に閉じ込められる場面で鉄格子のある窓で少女と一緒に会話をする場面でのシーンで、お金を渡してアイスを買ってきてくれと少年が頼み込み、少女がチュッパチャップスと梅を購入して、少年に与える場面でのチュッパチャップスの飴を舐めたやつを少年の口元に持っていく場面である。

この作品も素晴らしく好きな映画だ。

続いて。


第2話 「アフー(鹿)」

本作は荒涼とした道を数十人のチャドルを見にまとった女性たちが必死で自転車をこぐ描写から始まる。そして馬に乗った亭主らしき男が1人の女性(奥さん)に"女がなぜ自転車に乗る。さっさと家へ戻って来い"と怒鳴りつける。だが、彼女は言うことを聞かず走り続ける。夫は呆れて、来た道を引き返していく。だが、夫はもう1人の男性を連れて再度説得しに行く。だが嫁は一切言うことを聞かずに突っ走る。そして次々に島の男たちが馬に乗り彼女を説得し始める。だが、一向に嫁は断固拒否し、1人自転車で誰よりも先頭を突っ走り始める…と簡単に説明するとこんな感じで、この島で女性たちによる自転車レースが行われている最中、離婚を望んでいる参加者の1人である女性アフーは、周りは道端で座り込んで休んでいるにもかかわらず、また自転車を引きずりながら歩いているライバルたちを置き去りにし、休まずに走り続ける。だが彼女の前には待ち伏せしていた男たちがいる。こうした男たちの身勝手な行為を振り切っていた彼女に訪れる結末…これを最後に目にした観客は一体どんな気持ちになるのだろうか…。

いや〜コバルトブルーの美しい海岸沿いを自転車で疾走するような集団の描写は何とも不思議な感覚に陥る。荒涼とした大地とのギャップも素晴らしいし、自転車は悪魔の乗り物だから乗るなとかこの日本では到底考えられない現実が、この特質な国にはある。もちろん国それぞれによってしきたりや伝統、文化が異なるので強くは言えないが、女性にとっては窮屈なんだろうなぁとは思う。ほんの一瞬パゾリーニの作品を見ているかのような不穏さと不吉な予感がラストを駆け巡る。あの後退していくカメラの演出が、最後の暴力を隠す感じで、小さくロングショットへと変わるのがなんとも意味深である。

この作品もなかなかの傑作だ。

続いて。


第3話 「フーラ(妖精)」

本作は冒頭に少年たちが戯れている描写から飛行機が空港の滑走路を離着する場面から始まる。ここはキシュ国際空港である。1人の車椅子に乗った老婆を押してあげる地元の少年(ポーター役)と2人でバザーに行く。そこで老婆は欲しいものを買おうとする。どうやら冷たい飲み物をいつでも飲める冷蔵庫が欲しいとの事。カメラはバザーの中を映し出す。そこには様々なファッションから家具専門店が立ち並ぶ近代的な魅力ある施設だ。老婆の指にはいくつものリボンが巻かれている。そこには欲しいものの名前が書いてあるようだ。

そして購入したものをコバルトブルーの美しい浜辺にすべて設置する。ベッド、鏡、洗濯機、冷蔵庫、ティーポット、カーテン…と様々になる。この映画は非常に魅力的な話である。最後の最後まで老婆の名前は明かされないし、多分、第1話に出てきたハッワ役の少女が、この作品にも少しばかり出ているような気がする。非常に似ている顔つきの少女の眼差しがある。この3つの物語の最後の本作で、私はこの作品を大いに評価し大いに傑作と感じた。

ネタバレになる可能性があるので、うまく話せないが、この老女はとある事から相続したお金で、かつて1度も実現することのなかった夢を叶えていく様子が描かれているのだが、彼女にはどうしても思い出せない何か突っかかった思い出がある。それは少年達と一緒にいるうちに、徐々に思い出していく。その忘れかけていた思い出は◯◯で、それを分かった途端に、彼女がコバルトブルーの美しい海辺に数多くの購入品を広げた事情が分かる。何よりも1つの純白のウェディングドレスの意味合いがわかる。そして彼女がなぜ購入したものを全て大きな筏に乗せて大海原へと旅立ったのかを知った時、観客は震え、そしてどこまでも慟哭するのである。

この映画、面白い事に、色黒の少年が化粧台の前で初めて使うリップスティックやファンデーションなどを顔に塗りたくって、香水までかけて結婚式用のドレスを試着したり、傘を刺したり、紐にくくりつけた食器類で太鼓の真似事をして踊ったりと、活気に満ちたダンスパフォーマンスが写し出される。それが滑稽で楽しくて笑える。1人の男の子は冷蔵庫にある果物から食料をひたすら食べているし、もう1人の少年は掃除機で砂浜の砂を吸い込んでいる。なんとも笑える光景だ。そして老婆は車椅子を押してくれて、1日付き合ってくれた少年を私の子供にならないかとまで言う始末…少年は苦笑いをして僕には母さんがいますと答える。



この作品は、イランに置かれる女性の立場を象徴的に物語った作品だと言う事は見ての通りだが、3つの物語の段階的に少女、壮年、老年と分けられているのも、どの年代でも生きづらさを伝えているかのように感じ取れる。それに3つのパートの主な主軸としては、時間がテーマの1つにもなっていると思う。彼女たちには時間がなく、いつも何かに追われているような血相をかいた表情を見せる。

特に第2話は思いっきりそうだ。また、日本では当然の男女渾然もこの国の社会では途中で必ず切り離されてしまう。そういった男社会のイラン厳格さを攻撃するかのように第1話では少年少女が飴玉を交互に舐め合う場面をわざと見せつけている。ここに関してはイランの女性にとっては凄く胸がすかっとするシーンだろう。

革命後のイランでの数多くの作品は傑作だらけといっても過言ではないほど世界的にも注目され脚光を浴びてきた。とりわけ21世紀の初頭に制作されたこの作品は21世紀最高の映画の1本として言える。私は普段こんな褒め方を21世紀の作品にはほとんどしない。それほどまでにこの作品は私の胸を貫いてしまったのだ。もしマフマルバフの夫人がもう一度映画を作ってくれるのなら土下座してもいいほどだ。

まだまだイラン映画には希望が残されており、特に近年女性を題材にした作品は世界各国で上映されているが、イラン映画ほど女性をうまく表現し、かつ迫真性と明晰性に満ちたものはない…。なぜイラン映画が希望に満ちているかと言うと、日本もそうだが、基本的にはハリウッド映画の模倣品しか作らずに、商業映画を中心に制作し、ビジネスとして成功を狙っている物が多いのが近年だが、イラン映画は決してそんなことはない。

オリジナリティーに溢れるアート作品をバンバン作ってくれる。よくイラン映画とインド映画ならどっちが好きと言う問いがあるが、断然イラン映画である。インド映画は徐々にハリウッド映画っぽくなってきている、実際ボリウッドと言う呼称もある位だ。踊って歌ってと楽しい表現に満ちているのは素晴らしいとは思うが…。

言わば、今まで夫の作品や娘たちの作品の助監督として実績をあげていた彼女が卒業制作として挑んだこの作品が、結果として世界的に評価されたのは素晴らしい映画の環境下にいたからだと個人的には思う。それに夫の導きが上手い。良い刺激が沢山あったのであろう。じゃなければ到底こんな素晴らしい作品を作る事は難しいと思う。

この作品にはほとんどスカーフと樽がシンボリックに登場するが、今思えばイランは石油産出国だからそれを埋蔵する樽は山の様にあるのか。


それにしても、このマフマルバフと言う一家は一体何者なのだと毎度驚かされてしまう。第一夫人の時に産んだ娘サミラのデビュー作「りんご」続く「ブラックボード背負う人」の秀作ぶりにしろ、次女ハナが監督した「子供の情景」にしろ、素晴らしいの一言である。

最後に監督の言葉がとても素晴らしかったので割愛しながら一説をここに引用する。

"女性は社会的に身分が低く、社会の生産的な部分においては、生産者ではなく単なる消費者やお荷物として位置づけられています。つまり女の子の誕生とは、家庭において収入の増加ではなく、消費の増加を意味するのです"

余談だが、この作品の第2話はプロの役者を起用していて、残りはすべてアマチュアを起用しているようだ。

まだ未見の方は、このヘジャブとチャドル、マグナイによるファッションファンタジーと、女の一生を三世代で表現した素晴らしい本作を観て欲しい…あぁ傑作だ。
Jeffrey

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