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私の優しくない先輩のshishiraizouのレビュー・感想・評価

私の優しくない先輩(2010年製作の映画)
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2005年の夏。
<家族で初めて渋谷へ行ったとき、スクランブル交差点で声をかけられた>小6の川島海荷は、スカウトされてレプロのジュニア部門に所属することになり、芸能活動を開始します。レプロ的には、ガッキーこと新垣結衣が、今まさに全国区になろうとしていた時期。

翌06年、夏ドラ『誰よりもママを愛す』において、田村正和ファミリーの小学生の次男が慕うことになる、転校してしまう影のある少女として川島海荷はデビューを果たしますが、ここでの彼女は、あくまでも(声の濁った、幾分大人びた)「印象のある子役」に過ぎず、「美少女=アイドル」という範疇にはいない存在、という印象でした。

つづく秋ドラ、『役者魂!』(「擬似家族モノ」の重要作)では、異父弟のチュータ/吉川史樹を連れて、藤田まことや松たか子と共に擬似家族を形成する、芯の強い少女・サクラコを好演。“子供であること”は、その「魂=人格システム」の何割かを身近な大人に依託しておくことであって、“大人であること”とは、「魂=人格システム」を他者に依託せず、自身にすべて宿らせることだということを、チュータとサクラコの、魂の有りようのコントラストが、鮮やかに示していました。ここで、自分に川島海荷の名前はインプットされた。わかり易い「美少女」では必ずしもない「印象のある」少女が、地道に子役→アイドル女優という路線をとりあえず歩みだしてみたという認識。

さて同じ時期、レプロには川島海荷より一学年上の、もうひとりの少女がいました。
彼女の名は菅澤美月。
2005年の4月には、王道アイドルの登竜門ともいえる『おはスタ』のおはガールとしての活動を開始し、川島海荷が芸能活動をスタートした頃にはすでに、その突出した美少女ぶりと稀有なトークスキルで(番組内ユニット・キャンディミントとしても)「美少女=アイドル」として常に輝きの中心としてあった彼女は、2年間の長期政権ののち、2007年3月、中2で『おはスタ』を卒業すると、レプロ内ジュニア部門からシニア部門へ異例ともいえる異動を果たしたことで、即戦力として、そしてポスト・ガッキーとして、事務所の期待を一身に背負っている存在だということを周囲に知らしめました。

一方の海荷といえば同じ頃(2007年1月)、事務所のジュニア部門のメンバーを寄せ集めたアイドルユニット・9nineに新メンバーとして加入。菅澤美月と同じくおはガール&キャンディミントであった下垣真香が、海荷と共に9nineに加入したことからも、菅澤美月の例外ぶり(推されっぷり)が窺われますが、ようするに即戦力ではない下積みの必要な人材としての(“その他大勢”な)活動を余儀なくされたのでした。

この年(2007年)、新垣結衣が遂に大ブレイクを果たしトップ中のトップアイドルにのぼりつめます(主演映画3本公開、歌手デビュー等々)が、その後継者としてのポジションを着実に得るべく、これまで多くのアイドルにとって全国区へのきっかけとなってきた『3年B組金八先生』に、菅澤美月が満を持して登場する。で、「印象のある」川島海荷はといえば、この年は9nineとしての地道な活動を行ったり連ドラにゲスト出演したりで経験を積みつつ、推されゆく「美少女」菅澤美月の背中(的なもの)を眺めていたのではないでしょうか‥。

しかし2008年になって、状況は一変します。
放送期間半年に及んだ『金八』(3月で終了)において、単調なキャラクターを単調に演じた菅澤美月は輝きもせずブレイクもせず、さらに、前年暮れに流出した不用意なプリクラによるスキャンダルが表面化する。結局、6月末には事務所から登録を抹消され、その一週間後には荒れに荒れたブログも閉鎖、自滅に近いかたちで芸能界からその姿を消しました。
そこで急遽、ポスト・ポスト・ガッキーとして推されポジに座ることとなった川島海荷は、メディア露出が激増し、以降、「次世代の美少女アイドル女優」としての道を突き進みはじめます。連ドラ『ブラッディ・マンデイ』2部作(08、10)や『アイシテル~海容~』(09)等で「儚げ?で、けなげ?な美?少女」として、CM「カルピスウォーター」や「味の素クノールカップスープ」等で「透明感のある?爽やかな?美?少女」として、全国区的な知名度を得て?ブレイクして?ゆく‥‥。

(?)ばかりの煮え切らない文章になってしまいましたが、つまり「そうゆうテイで」ブレイクのストーリーが発信されているに留まっていることにいちいち躓き、納得しがたいものを感じているからで、受け手側の地熱が足りない(あるいは無視された)ままにプロデュース側の都合で提供されるサクセスストーリーが「そうゆうテイ」ばかりで先へ先へと進んでいってしまっているという印象が、川島海荷のここのところのブレイクぶりには付き纏っているように思われます。
想定される消費者による「愛する」というフィードバックを抜きにして(「愛された、というテイ」で)「トップアイドル女優」というステップをあがってゆく川島海荷をみて、どこか居心地の悪いおもいを抱いているのは自分だけではないんじゃないかと思う(そもそも、「アイドル」とは「愛される」ことこそがその属性なのだから)。そして実際、川島海荷本人もこの現在の状況を政治的かつ偶発的なものだと、案外客観的に捉えているのではないでしょうか。その佇まいには、無条件に愛されて調子こく独特のイタい傲岸さがあまり感じられず、かといってヒネるわけでもないそのさまがかえって、ある種奇妙に新鮮な魅力に感じられもします。


私見による川島海荷を取り巻く環境の推移を大急ぎで語ってきましたが、そのようにして、川島海荷をある程度のスパンで眺めてきた文化圏に属するものの視点からすると、例えば『キネマ旬報』8月上旬号に載った直井卓俊による『私の優しくない先輩』評などには、だいぶ違和感があります。

そもそも冒頭の、<カルピスウォーターのCMなどでとびっきりの笑顔を振りまいている川島海荷。もちろん本名もわからない、ただひたすらにまぶしい美少女。>という粗雑な言いっぷりから、既にいろいろと苛つきますが(名前は、由来のエピソード込みで周知のように本名)、より錯誤があると思えるのは以下の文章。

<メジャー映画ではキャラクターが役者に勝っている映画が少ないように思える。例えば宮崎あおいはどの映画で見ても「宮崎あおい」で、演じたキャラクターを名を思い出せない。逆にインディーズ映画であれば大ヒット作「SRサイタマノラッパー」(08)の駒木根隆介という俳優名よりも「IKKU」という愛称が先に出て来るという例がある。そして本作は(略)まず第一にヤマコさんはもちろん、憧れの南愛治先輩、(略)天敵・不破先輩という映画の中のキャラクターの魅力が先行している(略)>

インディーズ映画のプロデューサーである直井氏は、メジャー/インディーズの区分を設けて、メジャー→キャラクターが役者に負けている/インディーズ→キャラクターの魅力が先行しているという図式(インディーズ映画のほうが魅力的!)を示してみせるのですが、自分に則していえば、『私の優しくない先輩』における川島海荷もはんにゃ金田も、ごくふつうに役名より先にその役者名が想起されますし、宮崎あおいの演じたキャラクターの名前も「宮崎あおい」という固有名に続いて、幾つも思い出すことが出来ますから、氏の言ってる“あるある”が前提として分からない。直井氏は、本作の高田延彦をみても「高田延彦」と認識せず、まず「西表誠」と認識するのでしょうか?‥よく分かりませんが、川島海荷(あるいははんにゃ金田)をそれほど知らない文化圏の人間にとっては「川島海荷」という認識で接している時間より『私の優しくない先輩』という映画で「イリオモテヤマコ」として接した時間の方が長い、というだけの話なのではないでしょうか?だとすれば、役者の認知度の低さをキャラクターの魅力と混同しての「だから、インディーズ映画は役者が輝いている」という論旨は成り立たない。そのように直井氏が知覚したのは、ただ単にキャストが氏の熟知した文化圏の人々でなかったという事実しか、指し示しはしません。
「(自分が)長いあいだ見知った役者だから、この作品の彼/彼女はキャラクターが役者に負けている」、「よく知らない役者だからこの作品の彼/彼女はキャラクターが役者に勝っている」というのは無茶苦茶な話で、そこ(メジャー映画に勝るキャラクターの魅力、を有する映画)を立脚点として、“だから”<少々の無茶は承知で>、<少女を刹那的に輝かせ、映画の中に永遠に生きさせることができる>、<すべて説得力のある映画の装置として輝かせてみせる>等々と続いてゆく肯定的な言葉群は、少々説得力に欠けるのではないでしょうか。

そして、その文化圏内に属する者として、デビューから今までたまたま(?)その出演作のほとんどをリアルタイムでみてきた自分の印象に基づく感想として言えば、『私の優しくない先輩』における川島海荷の「魅力」は、その資質に余りそぐわないのに繰り返し採用される「難病/病弱」=「儚い」要素や同じく数多く演じた「等身大」要素・等で構成された、それほど例外的なものではなく、これ位は有するだろうという想定の範囲内の「魅力」であって、個人的には、たとえば今年の春ドラ『怪物くん』(10)のウタコ役(怪物くんへの想いと、その関係性の微妙さが愉しい)のほうが輝いてたんじゃないかと素朴におもいますし(はんにゃ金田も、必要以上に「はんにゃ金田」で、もう少し「不破先輩」というキャラクターであったらな~とすら思う)、そうした印象を持っている自分からすると、「アイドルとはその魅力が実力を超えた存在」というあんまり面白くないテーゼを引用して<川島海荷は本作で実力以上の魅力が引き出された幸福な女優の1人であろう。>と断言する文章を読むと、“映画”は他の映像メディアより当然格上だという前提が透けて見えて、映画のヒトはエラソーだなと不快に感じもします。

川島海荷は、新垣結衣や菅澤美月のように(実力とは無関係に、問答無用の属性としての)<ただひたすらまぶしい美少女>では有りえない自分を知っていますし、作品内で結晶させるべき「魅力」があるとしたら、手ぶらで臨むのではなく、努力や実力によってその水準の人物像を構築しようと作業(演技)をする、ごく普通の若手の演じ手であって、その意味では、万一上記のテーゼに則るのだとしたらアイドルではないとすら言えるでしょう。
『私の優しくない先輩』における川島海荷は、ごく順当に、実力に相応の輝きを放っていると判断します。

しかし、そう言いつのってみても、本編の物語が終わりをむかえ、エンドロールで披露される『MajiでKoiする5秒前』での川島海荷の「輝き」はやはり例外的なもので、多くの論者がその多幸感を肯定するこのシーンには、理屈抜きの<ただひたすらまぶしい>美しさが溢れています。
そして、自分の感触としては、ここでの感動の“質”は、映画(文化圏)的な、「目的を欠いた純粋な手段」としての《身振り》に由来する、というよりは、どうやら、アイドル文化圏における「ミュージックビデオ」(PV/MV)が齎す愉悦のありようと、正確に同じものだと感じられます。唯物論的な不断の更新としての輝き(=映画)ではなく、文脈からの逸脱が文脈依存でもある戯れとしての輝き(=アイドル)。

2010.8
shishiraizou

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