フラワーメイノラカ

惑星ソラリスのフラワーメイノラカのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
4.0
天も、宇宙全体も、わたしの先祖にみちみちている。
どこに身を隠そう?地獄の闇に逃れようか。
いや、なにを愚かな。あそこでは父上が裁きの壺をささえている。
(ラシーヌ『フェードル』)

地球というひとつのアウトスペースから、ソラリスというインナースペースへ。
あらゆる枠に嵌められ、すぐさま擦り抜けるソラリスの海。
私たち観客から観る本作は、タルコフスキーが綴る映画に関しての省察のようだ。
同時に、ソラリスがひとつの脳であるならば、これは地球外生命体が行った私たちの生態観察ではないだろうか。

観察にあたりソラリスが提示した、人類の最大の欲望である「無限、あるいは夢幻」に、宇宙ステーション"プロメテウス"は沈黙を余儀なくされた。
神に等しい業を目の当たりにしても、人間という自我から離れてはならないーーこの葛藤が、おそらくタルコフスキーのいう「道徳心」なのだろう。

学者たちが執着する「本質」は、ソラリスのみせる「実存」の前では歯が立たない。
科学も宗教も、ただ地球人が未知なるものへの恐怖から拵えた紙の盾に過ぎない。
ある者は自殺し、生き残った者は途方に暮れ、そしてクリスは亡き妻ハリーと化した"客〈ゲスト〉"に取り憑かれる。

幾度となく繰り返されるハリーの復活はキリストのメタファーであり、地球人がいかに死体蹴りに執着しているかがよくわかる。
しかし、真にキリストの名が託されているのはクリスの方だ。クリスは命の永続を願いながら、愛を説いてみせる。

だが、タルコフスキーは彼を、夢に囚われた愚者である『ドン・キホーテ』だと突き放す。
そこには間違いなく受難はあるだろう。が、果たして救済があると言い切れるだろうか。