こーた

惑星ソラリスのこーたのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
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首都高速の長いトンネルを抜けると宇宙ステーションであった。
長い長いドライヴに疲れて、廃墟のようなソラリス・ステーションを彷徨っているうちに、催眠術にかけられたように、ウトウトしてくる。
そこに”あれ”が現れて、わたしはバッチリ覚醒する。いや、わたしは目覚めたのではなく、夢を見ているだけなのか。これは映画なのか夢なのか、あるいは夢のような映画なのか。

映画はわたしの心のなかにある、まだ名前さえついていない”なにか”を、実体化する。
いま観ているこれこそが、わたしの物語だ!と思うからこそ、ひとは映画に共感する。
映画はわたしの想像を、物質化する。

ソラリスの海が生み出したハリーを、サルトリウスが罵る。「お前は海が作り出した複製だ」。
ハリーは涙ながらに訴える。「わたしは人間よ」。
それを観ているわたしは思う。これは、自分が人間だと訴える、女優の演技である、と。
その感情は真実ではない。中身は空っぽなのである。
わたしたちは女優でなくとも、日常生活のなかで感情をいつわり、知らず知らずのうちに演技をしていることがある。
記憶の複製であることと、演技であることの違いはなんだろうか。人間とはなんだろうか。これはチューリング・テストなのか。

この映画はそういう、人間とはなにか、という哲学的なテーマを追求しているのだな、などと早合点していると、さいごにひっくり返される。
ソラリスの海は、共感をもとめない。理解されることを拒み、わたしの想像にただ作用するのみである。
真に他者を理解することなど、ありえないのだろうか。
理解とはなんだろうか。

映画は共感をもとめない。ただわたしに作用するのみである。
タルコフスキーに、レムに笑われているのかもしれない。