きょんちゃみ

惑星ソラリスのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
5.0
【ソラリスについての批評】


【考えないことにしているもの】(=抑圧されたもの)も受肉するけど、【実際には現実化しなかったけど意識には上ったり上る可能性があったこと】も受肉するのがソラリス空間です。

私にとって、留学とは惑星ソラリスにいくことです。留学先で人は、絶対的な他者(=海)に出会い、その他者を最初はロケットで宇宙空間に打ち上げることで厄介払いをしようとしますが、幽体ハリーは戻ってきます。

私が面白いと思ったのは、実は元カノハリーは、【本当に死のうとはしてなくて本当に死んでしまった】のに対して今カノハリーは【本当に死のうとして死ねなかった】ということ。ここが対比になっている。

今カノハリーは、クリスにとってあくまでも自分の想い出を映し出す鏡であって、クリスは自分の想い出と恋愛している。自分の鏡像と恋愛している。幽体ハリーはクリスに、クリスの鏡として愛されること(過去の記憶として愛されること=元カノに似ているゆえに愛されること)に耐えられなかったので、途中から「私はハリーではない」といって【自分とは何か】という究極の問いを考え始める。

アンドレイ・タルコフスキーの描くクリスは科学者らしいとおもいました。タルコフスキーのラストシーンの改変は、科学者とは、懐かしさを追う永遠の子供(=科学者は結局のところ、自分の世界認識の形式、たとえば原因と結果の関係を、内的な反省によってではなく、自ら世界に投影したうえで、究極の原因の外的な表現を探している。つまり結局かれら科学者は、永遠に自分の外部に故郷を探し、それを外部に幻視する者)だと言おうとしているのだと思います。このタルコフスキーの読み替えは本当に見事です。タルコフスキーとレムはこのラストの改変をめぐって喧嘩をしてしまいましたが、私としてはこのラストはなかなか良いなと思います。SFファンには不評だと思いますけどね。

他者である海は、欠陥を持った神である、というレムの指摘はものすごく刺激的でした。科学で理解することを、あくまでも拒絶するような、【残酷な奇跡の時代】は、確かに過ぎ去ったわけではないと思います。ただ、それを『残酷』と形容することが、レムらしさ、というより、ユダヤ人らしさ、でしょうか(笑)
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