もしこの映画のお葬式が開かれたとしたら、きっと参列者はおどろくほどバラエティ豊かな面々になると思う。
もしかすると喪主は『スタンド・バイ・ミー』が務め、『アンダルシアの夏』と『あの夏のルカ』が親族席にいるのは当然として、隅では『フットルース』が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の涙をこっそりと拭いてやり、さらには遅れて『(500)日のサマー』だって顔を見せるかもしれない。
この映画は1979年の作品だけれど、その後のいわゆる青春・スポ根・クサレ縁系チーム映画…に受け継がれた遺伝子の欠片が散らばっていて、照りつける日差しに漂白されきった大気の中できらきらと浮かびきらめいている。
青春譚の舞台は、どうしていつも夏なんだろう。
主人公たち4人を追っていると、ちょっとだけこの季節をともに過ごしたような気になる。夏の開放的な空気が、画面からこちらにいっときの間だけ道を開くことを許してくれるからだろうか。
舞台の街はかつて石切職人の街として栄えていたが、工業化によってそれも廃れ、現在では新しく建ったきれいな大学に外から通ってくる裕福で都会的な人々が幅を利かせている。大学生たちは、主人公たちのようにこの土地で育った勢を侮蔑を込めて「Cutter(石切り野郎)」と呼ぶ。
主人公たちが自転車レースに賭け、挑むのは彼ら自身の決着であると同時に、上の世代から引き継いだ運命そのものだ。あばたヅラに汗が滲みた薄っぺらいTシャツを引っ提げて、彼らはどこにも行けずただ若さを消費するだけの日々だった。
何かめちゃくちゃに秀でた才能があるわけでも、人に褒められるような努力ができたわけでもない、だけどちくしょう、一生なんて言わないからこの一回だけ、この一回だけは勝たせてくれよ…
いまの目で観ればごくごくベタなストーリーだけれど、そんな想いがまさに車輪の回転のように後半に向かって加速していき、誰にも普遍的なメッセージとして確実に胸を打つ。
夏は開放的なイメージと同時に、そのうだるような暑さや全てをあけすけに晒してしまう太陽など、出口のない倦怠や諦めもまた想起させると思う。
しかし、夏休みはいつか終わる。夏を抜けられたならば、きっと前に進めるのだ。
主人公が自転車にハマるがあまりイタリアにかぶれまくっている、という設定を中心に、笑えるイベントも多数。パパとの口喧嘩をはじめ、語彙がいちいち気が利いてたりするのだよね。
「ズッキーニだのリングイーニだの、もうイーニはたくさんだ!」
そして飼い猫の名前はフェリーニ(ほんとはジェイク)、センス良すぎで笑い転げた。
もし次に新しく猫を飼うことがあれば、わたしも見習おうかな。