さんおつ

東京流れ者のさんおつのレビュー・感想・評価

東京流れ者(1966年製作の映画)
3.9
デイミアン・チャゼルは、"ラ・ラ・ランド"のプロモーションで来日した際に、

「ある日本人から"東京流れ者"との類似を指摘されて、意識してなかったけど、もしかしたら影響はあるかもしれない。確かにポップな色彩やワイド画面に類似するところはある。アメリカでは誰も指摘してないけど」

という意味の発言をしており、少なくとも意識的にはジャック・ドゥミ以上にこの映画にオマージュを捧げたわけではない。

この辺、ちょっと誇張されて伝わっているようなので、指摘しておきたい。

ただ、個人的には、"ラ・ラ・ランド"を見たとき「春」とか「夏」とか章ごとに字幕が入り、季節がガラッと変わる構成になっているのを見たとき、反射的にこの映画を思い出したのは確かだ。

清順、歌謡アクションを撮る。

もともと日活アクションという環境は「歌謡曲」と親和性が高い。

この映画は、全くミュージカルではないが、唄なしでは成立しないぐらいにずーっとあのメロディが流れ続ける。

この歌を売る為の映画なのか?歌が売れたから映画にしたのか?今となってはどーでもいいが、このメロディは危険だ。思わず歌ってしまうし、この歌が流れると何もかもどーでもよくなって、話がわからなくなってしまう。

そもそもが、日活アクション自体、ナンセンスの塊だったのだが、清順監督はそこから映画としての最低限の枠組みも取り去ってしまった。

それは「連続性」ってヤツだ。

例えば、昼のシーンの後に夜のシーンが来たら時間的にはリニアなはずだ。ただそれには、ストーリーや台詞などの助けが必要だ。

空間的に同じ場所に居るショットが一つあれば、二人の人物がクローズアップで交互に示され続けても会話しているとわかるだろう。

大抵の映画は、「連続性」を基本としているため画面の時制や空間的位置関係が分からなくなることはない。

清順映画にあってはこうした規則は、平気で破られる。特に日活解雇から職業監督復帰以降の作品では、画面にいる人物の存在すら危うい。

なにしろ、幽霊も人間も想像上の人物も同時に画面にいるのだから。

この映画は、まだイクところまでイッてはいない崩壊前夜の鈴木清順映画だ。

ただし、それ故にもしかしたら「陽炎座」や「ピストルオペラ」以上に危険な映画かもしれない。

なぜなら壊れかけたモノは、壊れてしまったモノよりも危険だからだ。