まりぃくりすてぃ

ある秘密のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ある秘密(2007年製作の映画)
4.7
◆反オリンピック映画の金字塔◆

父はユダヤ系フランス人(ルーマニア出身)。レスリング・体操・テニス等々を悠々と力強くこなし、ナチスの猛威下で(ベルリン以降の五輪は連続中止となるも)、出自を隠して肉体エリートのパリジャンとしてイケてる人生を謳歌しようとするが、善良可憐ユダヤ女性との結婚式の場で、あろうことか花嫁の兄嫁!に一目惚れ!! 水泳&高飛び込みが得意な長身のファッションモデルのその美女(これもユダヤ人)に視線と優しさでつきまとい、“不倫” の末にとうとうゲットしちゃう。
将来の金メダル候補と期待したスポーツ万能の最愛の息子を、失う、という悲劇もあったのだったが、ホロコーストの絡む悪夢を新夫婦ともども隠し去り、改姓や改宗で素性も半ば消し、そんな “逃げ” の人生から解放されきらない衰えた父は、病に倒れた後妻とともに、やがて自爆の最期へ。
残されたもう一人の虚弱体質の息子は、強靱だった父母や “兄” への引け目を抱えてびくびく育ったが、スポーツ以外は多才であり、知性でもろもろを越え、フランスの暗黒時代(ナチスに迎合)をふくむ社会と個人の苦しい過去も、未来も、自分なりに抱きしめて、ごまかさずに丁寧に歩む人生を妻子とともに何とか軌道にのせている。
健全な平和世界にて、健全な肉体に健全な精神が宿ってこそ!


◆表情映画 21世紀のフランスの最高映画か◆

大人たちの行動が、とにかくヘン。不倫の中心にいるマクシムも、前妻アンナも、後妻タニヤも、部分的にはそれぞれ鬼(orろくでなし)だ。
親身で常識的とはいえ口が軽すぎるキーパースンの女性もいる。まるで漱石の『こころ』の先生が、出会って日が浅い青年にあててべらべらべらべら遺書を書いたのと同じに、そのルイーズって女は口が軽い。おかげで少年フランソワは家族の秘密を知るんだけど。
「憎むべきナチが悪いのだ」とフランソワが終盤に父を慰めても、私たちは「全然ナチのせいだけじゃないでしょ、やっぱお父さん、あんたも悪い」と裁きかねない。
(ちなみに、、、第二次大戦終結後も西ドイツの権力中枢には、戦犯として罰された者を除けば戦中と同じ顔ぶれが大勢居座り、全罪をナチスに着せ、ドイツ国民はヒットラーらに騙された被害者だったのだという上手い理屈で指導者たちは国民に正気と誇りを保たせ、国際社会への円滑な復帰を進めた。フランスはフランスで、ヴィシー政権時代にさまざまな者がナチスに加担し、その記憶と記録は全国津々浦々に残っているにもかかわらず、戦後にド・ゴールが「フランス人は一丸となってレジスタンスを頑張った。私たちは果敢にファシズム・ナチズムと闘ったのだ」という虚構をフランス国民に信じ込ませ、新時代の揺れる国家をまとめあげた。そのへん、あまりにも世渡り下手な日本は、最高主権者の昭和天皇がGHQに免責されたことでウヤムヤを自他ともに許し合っちゃった一方で、日本国民は一億総懺悔的に「みんな悪かったよね? みんなでゴメンナサイしとこう。本当のところなぜああなっちゃったのかよくワカリマセン。とにかく外国が何か怖いこと言ってくるあいだはずっとアヤマリツヅケチャオウ」って感じで心底からの歴史整理は伴わず、今もなお多少いろいろ尾をひいてる。今後もひきそう。。。)
じつは、本作は、原作がスゴい。故人ばかりとなった己の家族たちを実名で出したノンフィクション文学。ほぼすべての読者を掴んで放さない。元の事実のドラマティック度とシリアス度がスゴい上に、書いた成果が独自性と普遍性のつながり方としてモノスゴい。終わりの自己(&他己)解放に感動さえある。それの映像化が、どこまでうまくいったかで、5点にも6点にもたぶんなる!
────でも、好き嫌いで1点になりうる。危険! 何せ、すべての発端は一個のどうしようもない不倫だから。「ただのメロドラマでしょ?」と言われたら誰がどう言い返す?
長身の美母役で光を集めまくったセシル・ドゥ・フランスの美しさとかにばっかり注目しちゃう映画鑑賞者が多いんだと思うけど、女優一人二人に気を取られる見方はダメだと私は思う。
この映画が「ありがちな “メロ・リアル” な男女映画に、ホロコーストの緊張感をやや風変わりにおいしく加えただけ。現代・小過去・中過去・大過去がごちゃごちゃ入り組みすぎてて、人物もそれぞれ名札つけてほしいぐらいに多彩に出てきて、、途中で何もかもどうでもよくなっちゃう。退屈!」なんて評へと墜ちちゃいかねない時、まずは俳優一人一人の表情演技の印象濃さがどうやら凄まじいぞ、と3点ぐらいを私たちは用意し始める。うん、表情で見せていく演技演出が、充分にせつない!
やがて、例の漱石の『こころ』をバタ臭くしたみたいな軟弱な(メロい)文芸香を、骨太な文学性(メロいとかじゃなくスゴい)が、呑み込み返す、という気づきが訪れる。
それはつまり、真の主役が(大人の不倫男女とかではなく)まぎれもなく虚弱体質息子フランソワ(原作ではフィリップ。原作者名/フィリップ・グランベール)であり、そのフランソワの0才・7才・14才・37才を演じた各男子の真剣みが本来この独自物語が全然アムール映画じゃない自己解放&他者解放の普遍物語なんだと(わかる人に)わからせてくれるから! そう、男の子たちのもたらす切実さが本作の中で一番リアルなんだ!
それは、フランスの高校生たちが当時大絶賛したベストセラーの原作を読めば(いや、読まなくったって、映画鑑賞の範囲内だけで味わったって)本当にすっかりわかる。この映画の主人公は、母たちでも父でもなく、息子なんだ!!! この点を押さえれば、これは美しかろうが何だろうが女優さんたちを拝む映画じゃないんだ、ということがわかって、しかも、その上で、女優さんたちをも味わうことができる。「をも」だ。この「をも」において、初めて傑作映画と呼び始めることができるわけなのだ!


◆なぜ、過去をカラーに、現在を白黒に?◆

現在(1985年)といろんな過去(1940年前後・55年・62年)が入り乱れる本作で、現在だけが白黒。これは、国際的に知られた中国の秀作『初恋のきた道』を踏襲してるんだとまずは思わせる。
『初恋のきた道』で、若かりし頃の母たちのみずみずしく美しい輝きが長時間あますところなくフルカラーで描かれ、晩年の老母はわびしく白黒。ずっと前に私はその作品の良さがすべてわかり、可愛いヒロインなんかに限りなく惹かれながらも、「私たちは、お婆ちゃんになっちゃいけないんだね……」とちょっとさみしくなった。監督はとにかく映画監督として若い美女を撮りたくて撮りたくて、世間もそれを観たくて観たくて、、っていうのがこの世なんだなぁ、と。
で、本作もそれをやった。結局、セシル・ドゥ・フランスやリュディヴィーヌ・サニエらを美しく美しく美しいものとして提示するのが監督の第一の仕事なんだとばかりに?
ただ、原作にはっきりこういう記述がある。
<歴史や授業で学んだことがらは、もはや太字で印刷された教科書の見出しとしてでなく、にわかに生気を帯びて動き出した。白黒写真が色彩を取り戻したかのよう>
<両親はそれらのできごとを乗り越えてきた。そして(ぼくが)思っていたよりもはるかに深刻なダメージを受けていたのだ>
<ページはいよいよ素早くめくられ、映像は鮮明さを増していく。のちになって、同じ白黒の映像が、封印された貨車の扉や、霧のなかの駅を、なおも信じようとしない者たちの目に投射することだろう。霧のなかから戻ってくる人間はだれもいない>
────つまり、監督は、原作の中の、両親らの若い時代の悲しみや苦しみや喜びに色をつけることを迷いなく選んだ。あの時代のユダヤ人たちの実際に息していた姿を、苦しみふくめてみずみずしく。
そのためには、晩年の父や母を白黒で描き、真の主人公である成長後のフランソワをも白黒にしちゃった。
その結果として、鑑賞者には、若い頃の美しい二人の母を映像的に贔屓してる監督姿勢がまず審美として伝わっちゃった。
だから、幼児期から成長後までずっとフランソワが主人公のこのドラマが、まるでタニヤとか(アンナとかマクシム)の話になりかねなくなっちゃった。


◆映画独自の意味の発見◆

原作では、確かに後妻タニヤは<これまで出会った最高の美女><一緒に歩いていると人がふりむくような女性><いきいきした力、自由気ままな美しさ><勝ち誇らんばかりのタニヤの美しさ>と表現されていた。
先妻アンナは、<陶器のような肌><心配性の、優しい母親><女という以上に母>という程度で、けっして容姿絶賛はされていない。
ルイーズに至っては、原作では足の不自由な、全然パッとしない老け女だ。
マクシムの義姉(または実姉?)であるエステルは、演技者のようなわざとらしさをもつ赤毛の女性ということ。
つまり、原作では、主要四女性のうち、圧倒的にタニヤが映えていた。
しかし、映画では、四女性が、みんな綺麗だ。お姉さん組とはいえルイーズもエステルも美人の範囲内にいるし、何といっても火花を散らす者同士であるタニヤとアンナに、容姿の差がほとんどない。
アンナは、やや小柄で天使タイプ。悪くいえば魔女っぽくお婆さんぽい。
タニヤは、長身で女神タイプ。悪くいえば男かロボットみたい。
タニヤが巨乳とかいうなら男心の揺らめいちゃうのもわかるけど、アンナとタニヤでは背の高さ以外にこれといって優劣がない。まちがっても、アンナとの結婚式のその日に新郎マクシムが新婦そっちのけでタニヤばかりを見つめちゃう理由は、見つからない。
そこが、映画創る以上は美人づくしにしちゃいたかった監督らの蒔いた、波瀾要因。
でも、私は嗅覚で、勘づいた。原作にはなかった要素。原作ではタニヤは<豊かな黒髪>。映画ではタニヤ役のセシル・ドゥ・フランスが印象的な金髪。
ユダヤ人は、科学的に古代パレスチナ地区との遺伝子的連続性がほとんどなく、のちに一国丸ごとユダヤ教に改宗した黒海沿岸のハザール国の住民たちの遺伝子がかなりの割合、ヨーロッパ中で広がった。そのハザール系の外見的特徴が「大きな鷲鼻。ぎょろぎょろした目。黒っぽい髪」等だ。ナチスドイツは外見でユダヤ人と非ユダヤ人を判別しようとしたらしいが、その背景にあった優生思想がアーリア人至上主義。ナチスが定めたその特徴は「長身。筋肉質。金髪。青い目」だ。
映画のタニヤは、瞳こそ青じゃないけど、当時のヨーロッパにおける典型的なアーリア系の美女ということになる。一方、映画のアンナは、鷲鼻じゃないけどフンイキ的にはユダヤっぽさがある。こんなことを細かくいうのは問題あるのかもしれないけど、少なくとも、この映画で一族や婚礼客等「ユダヤ人」として登場してきた者のかなり多くが、ふだん「ユダヤ人っぽい」と私たちに思わせてくれる特徴をある程度そろえてるようだった。そんな中で、タニヤはユダヤ人でありながら、ヒットラーに「おまえはこっち側(ドイツ民族)に来てもいいぞ」と褒められそうな容姿。そしてアスリートのマクシムは、ユダヤ一族の中でユダヤ嫌いを公言し、できるだけ自分の出自を隠そう隠そうと努めてた。
つまり、ユダヤであってもユダヤを脱したかったマクシムにとって、いくら可愛らしくても妻アンナはユダヤっぽいユダヤ人でしかなく、そのアンナの兄の嫁であるタニヤはユダヤっぽくなくてアーリア人っぽくて素敵に思えちゃったんだ!
同族嫌悪。日本でも、在日朝鮮人の中には朝鮮系同士でいじめとか張り合いとか序列づけとかをしちゃう人(日本に同化したい気持ちとかいろいろあってのことでしょう)がけっこういるって聞いたことある。
原作ではマクシムはごく若い頃からプレイボーイで、その成れの果てで自らの結婚式であんなこと(一目惚れ)になっちゃった、ってなってるけど、映画ではマクシムは、言外にユダヤ嫌いのユダヤ人ゆえの倒錯的純情(要は、憧れ)を抱いちゃったってことになったんだと思う。言外に!
ここんところに、この映画が原作を超えた表現をいくつも試みたうちの最高な一つを読み取った私なのだった。
ほか、後半に魂が抜けちゃったアンナの横顔ショット。完璧だった。
途中の、14才の美フランソワが窓ガラスごしに父母を眺めるせつないような表情ショット(と母との切り返し)。これも完璧だった。
映画独自の場面がかなり多かった。相当な工夫と熟考を感じ取った。
レベッカという中学のユダヤ人同級生は原作には出てこない。平手打ちも原作にはない。
ただし、うまくいってないところもいくつかあって、その中で、最大の、映画の失敗点は、タニヤの側の恋心がほとんど描けてないこと。マクシムがタニヤにつきまとうばかりで、タニヤがいつどういうふうにマクシムを好きになっていったかが不明になってる。原作では、それはもちろん(実話だから)完璧に「最初から」だった。
それと、疎開先からタニヤとマクシムの恋が発展しちゃうとこ。原作ではもっと遠慮深く、二人は獣のように求め合い始めたんじゃなく最初は妻子を失った悲しみでマクシムがタニヤにただしがみつく感じだった。映画だと、まるで不倫セックスが結局描きたかっただけみたいに、安っぽく平凡な裸の描き入れみたいになってた。
そこらへんで勘違いされて、映画として酷評されちゃう場合があるんだと思った。これは、原作を知ってる知ってないとは関係ない。真の主役が息子フランソワだと見抜けてさえいれば、余計なアムール(性愛)要素には当然厳しくなる。
だから、この映画は完璧ではない。
ラストも、原作の締め方の二割ほども成功してない。ユダヤ教徒にとって最も重要な「安息日」の描写も欠けてた。


◆セザール賞への不納得◆

最多11部門でセザール賞にノミネートされたっていうことだけど、その中で、助演女優賞をアンナ役とルイーズ役が争ってルイーズ役が勝ったことについて。
アンナ役のリュディヴィーヌ・サニエはあらゆる意味で完璧だった。本作が表情映画であることはさっき書いたけど、中でもサニエはけっして台詞数が多くない中でプロットにとって最も重要な「傷ついた先妻の感情」を表情に万感情こめて表現しきれていた。しかも幸不幸の振幅のどこにいても常に当時のユダヤ人の苦難の影を負いつつ常に可憐だった。超完璧。
に対して、ルイーズ役のジュリー・ドバルデューは、原作の像と程遠いキャラとして新造型されてて自由度が高かった中、大して難しい演技が要求されず自然体に第三者的立場を色付けしていける本当に楽めな存在だった。そんな中、後半の一番の悲劇シーンで、外野位置でエステルとともにただあんぐりあんぐりしてるだけで、演技になってなかった。
原作では、その母子連行シーンではちゃんとルイーズの心情描写があったのに、映画では省かれてる。それもあって、一番肝心な(そして演じ甲斐のある)シーンにほとんどエキストラ演技しかせず、それを疎開先でマクシムに伝えるところも、ロングショットで重圧なし。
しかも、その後の意味不明な咳シーンが、意味不明に下手だった。
てことで、助演女優賞はゼッタイにアンナ役にこそ与えるべきだった。サゼールの人たち、どこ見て審査してんの?


[つたや]