ジョーカーに出てくるらしいので予習(復習?)
・アステアの映画はだいたいそうなのだが、天才的なダンスシーンに魅了される一方(夜の公園の場面が一番よかった)、才能を盾にパワハラセクハラを繰り返し、それでもヒロインにはモテるパターンがどうしてもモヤモヤする。今回も同様だった。ラストシーンのシド・チャリシーの愛の告白を受ける切り返しの表情、あまりに緩んだニヤケ顔においエロ親父と声が出そうになった。
・1953年公開なので雨に唄えばの翌年。この頃は、1920-30年代のハリウッド黄金期が一周し、かつてのジャンル映画のメタ的な再解釈が進んだ時期だ。雨に唄えばとテーマは近く、人気に翳りの見えるスターが七転八倒しながらミュージカルの再興を試みる話になっている。キートンオマージュも序盤に入っていた。ただ全体に話は散漫で、劇中劇と物語のリンクが弱いのが物足りない。
・全編が屋内のセット撮影のため、日常シーンも劇中劇もセットという、虚構のマトリョーシカ状態がもはや息苦しくて面白い。最後に公演が成功したのか明らかにしない冷静さ(「大好評だった」というスタッフの説明だけが入る)を保ちながら、アステアへの敬意と感謝は劇団員によるパーティーで示される。この身内オチ感は今作の閉じ切った世界観に合っていると思った。「僕たちは違う世界から来た。でも一緒にステージで踊ることはできる」「我々が箱に閉じこもっている間も自然はある」といったセリフも良かった。
・序盤のゲームセンターのシーンも面白く見た。映画やミュージカルが廃れた時代感を示しつつ、アステアがゲームの機体に振り回されることで、結局かつての映画と同じスラップスティックコメディをやっている。「無言で追いかけてきてホットドッグをねだる少年」や「ゲームに熱中する妙に背の高い女性」が画面に映り込み、現実に不条理のヒビを入れていく演出もよく出来ている。このシーン、同じエキストラが何回も使いまわされて後ろの方を歩いてるので、本当に迷宮感がある。