オルキリア元ちきーた

蜃気楼ハイウェイのオルキリア元ちきーたのレビュー・感想・評価

蜃気楼ハイウェイ(1991年製作の映画)
3.8
港町の場末の酒場。
港のドックヤードで働く男達が集まる。

造船所で日雇いで働くバイカーのジョー(ジョン・ドー…LAのパンクバンドXのベース&ヴォーカル)が疲れた体で酒場にやって来る。

酒場の片隅には、ピンボールに興じる男。
ビール片手に見知らぬ男同士の間にぽつりぽつりと会話が生まれ、同じバイカーという共通点も見つかり、酔いが回るに連れて連帯感が生まれる。
ピンボールの男は嬉しそうに
「今度俺の故郷に行こうぜ。エルドラドはいい所だよ!」と約束にもならない様な約束を交わす。
しかし突然、オンボロのピンボールマシンが火花を吹き、せっかく出来た友達がアッサリ感電死してしまう。

後日、警察の事情聴取を終え、ジョーは帰ろうとすると、警察に呼び止められる。
どうやらピンボールの男の遺体を引き取ってくれる人間が居なくて、困っているらしい。
ジョーは、彼のバイクを売り、その金で遺体を荼毘に付し、その灰を彼のバイクタンクに詰め、彼の故郷「エルドラド」に向かう。

途中、ひょんなことから、イギリスのパンクかぶれの少年サム(ビースティ・ボーイズのアダム・ホロヴィッツ)が一緒に走る事になるが、なぜか泊まる場所を「モーテル9」だけにこだわったり、いく先々でトラブルを巻き起こしたりで、険悪なムードの中、エルドラドを目指してバイクを走らせる。

行く先々に不思議な予言をする人物(その預言者の1人はデビッド・キャラダインだったり、ジョン・キューザックだったりする)が存在し、その人達の言葉に抗ったり従ったりしながら、色々な出会いと別れを繰り返して二人はエルドラドに辿り着く。

しかし、そこにあった亡きピンボールの男の家族は、彼の事を煙たく思っており、遺灰を引き取るのも拒む。
友達の語った故郷も家族も、彼の理想だった事にやっと気がつく。
ジョーはバイクのタンクに詰めた亡き友の遺灰を引き取り散骨をする。

目的を果たし、行くあてもなくなったところで、ずっと同行していたサムは突然別れを告げ、旅の途中で知り合った「アラスカに行って人間の環境汚染で汚されたペンギンを洗うの!」という少女についていってしまう。
その頃には金も使い果たし、バイクも失ってしまったジョーも「また行く場所は見つかるさ」と、ヒッチハイクをして放浪の旅を再開する…。



ジョーの相棒?同行者のサムはモーテル9にしか宿泊しない。
モーテル9はチェーン店らしく行く先々にあるのだが
グラスや石鹸の数やアメニティの種類までやたらとこだわってスタッフにダメ出しをする。
モーテル9に空き部屋がなくても他のモーテルには決して泊まらず、なんとモーテル9の入口で野宿までする。
サムがなぜそこまでモーテル9にこだわるのか?は理由がある。
サムは赤ん坊の時にモーテル9に置き去りにされた子供だった。
サムにとってモーテル9は母の腕の中の様な神聖な場所なのだろうか。

サム役のアダム・ホロヴィッツの危うい少年臭い存在感が際立っていて、ジョーは殆ど保護者の様でもある。
そしてサムにはなんともヘンテコな可愛さがある。
いったん喧嘩別れしたジョーに殴りかかった挙句(ジョーが知り合った女の部屋に泊まって、モーテル9に泊まらなかったため)、寂しかったと泣いたりもする。

一方ジョーに扮するジョン・ドーは男らしく、身長もスラッと高く、渋く冷静なキャラクター。
ハーレーに乗った大きな体格のジョーは、トライアンフ系のカフェレーサーを乗り回すサムにとって、頼りになる理想の父親のイメージと重なるのだろうか?
母なるモーテル9へのこだわりが、ジョーの父性に触れたこの旅で成仏して、やっと女の子の尻を追いかけるオトナ?へと成長したのかも知れない。

1969年の「イージー★ライダー」のカルト版といった所を目指していたのかも知れないが、そういうテーマも、そういう時代も、すっかり流れ去ってしまった後に残った「ノスタルジー」を寄せ集めて作った様な映画。
行き当たりバッタリの風まかせなライダー2人の珍道中だが
むしろ、この映画の作られた1980年代後半頃というのはレーガン政権の下で経済的に安定し冷戦も終わりベルリンの壁も崩壊して世界に「平和なイメージ」か流れた時代だった。しかしそのレーガン大統領は1981年に暗殺未遂事件に巻き込まれ、1987年にはアメリカ史の中では二番目に大きな株式崩壊も起こっている。

イージー★ライダーの作られた時代の様な戦争の影響からのヒッピー文化の様なカウンターカルチャーの主軸が消え、若者が新しいムーヴメントを求めていた時代だったのかも知れない。…とはいえ、イージー★ライダーにもそんなカルチャーの終焉はかなり色濃く表れてはいたが。

そんな風潮の中で作られた作品だからこそ、珍道中の果てに、二人は特に別れを惜しむ様子もなく「次の自分の道」へとサラっと移っていくのだろうか?
それとも、この、あまりにもなし崩し的な結末とも言えない終わり方は
単に作品の不出来のせいだろうか?