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映画に愛をこめて アメリカの夜のkaomatsuのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

トリュフォー作品中、個人的にはダントツの傑作。この作品をレビューし忘れていた自分を反省…。

ゴダールやトリュフォーらのヌーベルヴァーグにハマっていた昔、父と兄、そしてなぜか親友も含めた4人で、本作を観に行った。確かシネスイッチ銀座だっただろうか。このときは、感銘を受けながらも漠然としていて、終始ジャクリーン・ビセットの美しさに目を奪われていたのだが、観るごとに作品全体の印象が徐々に変化していることにふと気付く。確かに、ジャクリーン・ビセットの美しさは常に不変なのだが、情緒不安定になったり、もめ事があったり、演技がうまくいかない劇中俳優たちを叱咤せずになだめ、落ち着かせ、うまくまとめていく、トリュフォー扮する劇中監督の東奔西走する姿を、最初は大変そうだなあと他人事のように観ていたのが、回数を重ねるごとに、いつしか深いところでの共感に変わっていた。これはまさに、自分が社会に出て、ある程度マネジメント経験を積んだことが影響しているのだろうと、今更ながらに納得。また、映画にまつわる巧妙な小ネタの仕掛けが、詳細まで読み取れるようになってきて、観るたびに新たな理解を深めている。多分、今後も新たな発見に驚かされるだろう。個人的に印象的なシーンは、以下の3つ。


●「フェリーニのときは、そうしたわよ。彼はセリフではなくて、数字を言わせるのよ。1,2,3,4…」(注:正確ではありません)。

劇中で撮影される映画の中で、いかにもプライドが高そうな劇中の大物女優(ヴァレンティナ・コルテーゼ)が、芝居中にセリフがうまく言えなくなるスランプに陥り、苦し紛れに言ったジョークだ。これが個人的にはドツボ。ズブの素人に無理やり演技をさせ、セリフをうまく言えない彼らに数字を数えさせ、編集段階でアテレコに吹き替えるという方法を徹底したフェリーニ独特の監督術を皮肉ったものだ。フェリーニの独裁的な演出法を常々批判していた、トリュフォーならではの演出の妙に舌を巻く。しかもヴァレンティナ・コルテーゼ自身が、フェリーニ映画の出演経験者である(『魂のジュリエッタ』)という、二重三重のトリックが仕掛けられたユーモア。

●ジャクリーン・ビセット扮する劇中女優が、自ら犯した一夜の過ちを咎めずに見守る夫の寛大さに、かえって罪悪感を強くして部屋に引きこもり、トリュフォー扮する劇中監督にその心中をすべて打ち明けると、打ち明けた言葉をちゃっかり映画の台本に転用されてしまい、ジャクリーン・ビセットの劇中演技のシーンで、彼女に劇中セリフとして言わせるという(非常にややこし言い回しで恐縮ですが、観た人なら分かるはず)、非常に凝ったイタズラ。台本を読みながら「あれ? このセリフって、さっき私が監督に告白した言葉じゃん…」ばりの、ジャクリーンのしてやられた的な戸惑いの表情が、たまらなくおかしい。

●結婚を約束していた女性スタッフに、あっさりほかの男と共に逃げられた、ダメンズ劇中男優(ジャン=ピエール・レオ)が、そのショックで半ばやけくそになりながら、映画スタッフたちに繰り返し聞いて回る「女は魔物か?」の言葉のもつ深み。まさにトリュフォーの過去作品へのセルフ・オマージュであり、ずっと撮り続けていたアントワーヌ・ドワネルのシリーズへの決別の言葉でもある。このセリフはやはり、トリュフォーの分身を演じてきたジャン=ピエールでなければダメだったのだろう。


さすが徹底した個人主義のお国だけあって、劇中キャストやスタッフたちの連帯感などまるでナシ。それぞれが勝手気ままに繰り広げる事象が、ユーモアとペーソスに満ち溢れながらも何となく収拾し、トリュフォー扮する劇中監督の見事な采配によって、一つの映画作りへと結集していく面白さ。そして、それまでの出来事が何もなかったかのごとく、各々が別の場所へ散っていくという、一期一会を感じさせるラスト。うーん、映画づくりって難しいけれど、素晴らしい…映画製作など一度も関わったことのない私が、僭越にもそう錯覚してしまう、マイ・オールタイム・ベストの一本だ。
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