ryosuke

女は二度生まれるのryosukeのレビュー・感想・評価

女は二度生まれる(1961年製作の映画)
4.3
川島雄三は「しとやかな獣」もそうだったけど、全カットのレイアウト・美術が凝っていて拘りが凄い。題材に相応しくというべきか、(特に敷布団が画面に現れるシーンなど)照明も艶かしく、上品な画作りが楽しめる。
序盤、「ぱんぱんぱん♪」などとご機嫌に歌う、忙しく電話をする太った老人客の歌と、シーン転換の瞬間から流れる劇伴が同じ音程、音色で繋がった気がするんだけどそんな意図は無いのかな。結構ハッとしたんだけど。
作中では時折靖国神社の太鼓の音が響いてくる。登場人物は戦争で親類を亡くしている者も多く、芸者になるに至ったバックグラウンドなども想像させるところ。すぐ近くに死者の存在を感じさせる本作の舞台は、欲望渦巻く花街を蠢く生者たちのエネルギーを尊いものにもしているし、彼らの営みにいつか来る終わりを予感させる影ともなっている。後者については、警察へのタレコミのエピソードもあるし、また、売春防止法施行以後の展開を我々が知っているというのもあるかもしれない。
山村聡は良いなあ。若尾を「うらなりの胡瓜みたいな面」「ババアになっても男が相手にすると思うな」などと罵る姿は、「風俗嬢に説教する客」じゃんと思ってしまうが中々リアル。彼には、金で繋がっているのではないかという、若尾との関係への不安もあるのだろう。しかし、本作の若尾は薄情でもない。「祇園囃子」ほど純情で初心ではないが、「赤線地帯」の人を踏みつけにする強かさもない本作の若尾は、映画館で出会った学生(高見国一)のチケットを買ってやり一緒に鑑賞するシーンなど、気さくで人情のあるところを見せる。しかし、そんな彼女の行いをきっかけに穏やかで心地よい物語に衝撃を齎す刃物が突き立てられ、映画の影が深くなっていく。引き戸を閉めるのに手間取る若尾。学生のリビドーともにそれがピシャッと閉められ、抵抗していた声が聞こえなくなり、工事?の音だけが響いてくる。叙情的で良いシーン。
本作の山村を哀れで気持ち悪いと思う人も多いのだろうが、尿瓶のエピソードなど何とも切ない美しさがある瞬間にも見えた。
口に含んだ水を植物に吹きかける若尾の姿に痺れていると、桜田(潮万太郎) がやって来て狼藉を働く。ビンタをお見舞いする若尾。酔ったなどと言い訳しながら帰っていく桜田の情けなさ。
フランキー堺の「幕末太陽傳」のお調子者と打って変わった木訥な姿、表情も実に良い。役柄に応じて変身する素敵な役者だったんだな。
若尾に首ったけになってしまう男たちの中で、遊び慣れした洒落者といった役柄の山茶花究も良い味を出していた。
そんな彼の誘導により若尾が羽目を外そうした瞬間、モンタージュで刃物と山村のカメラ目線バストショットが差し込まれる。川島らしい外連。
靖国が齎していた死者と弔いのイメージは、若尾の喪服と小規模な仏壇に結実する。タレコミを疑われながら蒸気を浴びていた姿が印象的で、ピリついた雰囲気を発生させていた吟子(倉田マユミ)との戦いは、仏を侮辱されることで発生する。キャットファイトが魅力的なのも「幕末太陽傳」と同じだな。
山岡久乃が訪ねてくるシーンでは、遮蔽物の向こう側、画面奥に二人を配置し、手前ですき焼きを食べる女たちの奥でどんどん緊張感が高まっていく。良い演出だ。
若尾は藤巻潤に同伴の外国人を世話するように申し付けられ、電車で出会ったフランキー堺は彼女をチラ見して降りていく。失恋とも言えないような静かな別れ。藤巻が彼女をアメリカ人に渡すというエピソードは、先に靖国のイメージを見せているため、後から考えると含みがあるかもしれない。更に山村の墓前のシーンもあり、男たちが矢継ぎ早に再登場し、全てが喪失に繋がっていく。墓に向かってさようならと告げる若尾。このトーンは、もう墓を訪れることもないのだろう。
さて、いつ「二度生まれる」かなと思っていたが、彼女が再生したのはラストだろうな。象徴的な意味を持つ金時計を最後の男に渡し、すっかり身軽になった彼女を引きで眺めるショット。「しとやかな獣」もそうだったが終幕が上品で良いなあ。
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