ニューランド

ミス・ヨーロッパのニューランドのレビュー・感想・評価

ミス・ヨーロッパ(1930年製作の映画)
4.0
 よく知らないが元々クレールの企画だったのか。もしクレールが実作したら、もっともっと才気煥発、目と気を引く、機知や仕掛けを散りばめたに違いない。バトンタッチのジェニーナは、普通話を進めるに必要な飾りや脇道迄どんどん削り込み、成瀬以上に単純化·純粋化に向う。映画としては厚みがなく、片輪で枝葉末節に欠ける。そこに映画としての純粋な才気が迸り、ストーリー以上の倦怠や後ろめたさ·疑いが敷き詰められ、またその下に微細な天才が感じられる映画的鼓動が決定的に滲ませてある、ということか。一世を風靡どころか、文化の潮流を深め人々にそれを植え付けたこの女優にとっては、やや溌剌さ·鮮烈さを欠いてきた肉体·表情を、殊更ミステリアスを排除してく、この作家の演出は有用にははたらかなかった気もする。しかし、役者·素材の活かし方はそういう方向もあると改めて教えてくれる作である。
 冒頭から暫くして巨大市民プールの、若い男女のとどまらない弾け方の描写の固まりが来る。速廻しでのトリッキーな細部の動き、水飛沫の白い細かな点群の覆い面積の変移、時に大L俯瞰何十人もの点在の中、殊更細かく騒々しい各人のはしゃぎのスピード感、横へのカメラ動きやカッティングでの各人間の増長や不和、飛び込むのを着水前にどんどん重ね、飛び込みもだが人間間でもアクション·リアクションの中間詰めた受渡し、全ての喧噪が輝きと化する。
 仕事場やミスコン会場·そこや列車での追っかけの不穏·映画メディアの囲み、らに移っても、DISやパン·移動、各人の急き立てられた表情のCUらが、細かくも艶めかしく連なってゆく。そもそも主人公カップルとその友人の勤める職場が、世界の情報が間置かず大量に入ってくる巨大通信社というのがいい。彼女はタイピストなのだが、逐次様々な情報に惑わされ、「かましい世辞や揺れる女心め一時のもので、愛してるは貴方だけ」とかヒロインは初終で2度唄うが、ミスコンへの応募·ミスフランスから世界大会へ·優勝から映画界スカウト·夫の元へ戻るもミスコンから映画界橋渡しの貴族然の男が連れ戻しに·栄華の頂点の試写を夫が探し当て来て射殺、のゆきつ戻りつの中、ヒロインは夫に行動や目的を隠し·すまなく気を遣い·顔色を窺い、夫も不安と疑い·憤り·専行の中にいて、交わらず宙づりで表情がグレーの侭進んで、自己を互いに失い、そのさらなる不安に包まれてく。メディアに振り回され、人工的な輝き·光と闇が、一際その不安定を意志と別の捻れた生を妖しく浮き立たせてく。
CUの表情、その紅潮輝きと安定落着きと窺い察し、それらの主体の人間の位置と出入り·身体部位の錯綜、慣れ安定し艷やか構図受け渡し、ごみごみした市井と鮮やかメディアとショービジネス、鏡とそれとの対応織り込み多用、その頂点が映画会社社長とヒロインのアップ·トゥショットの極上感ごしの自らが映えてるスクリーンの図か。しかし、ここのデクパージュで最も重要なのは、ウジウジと正体の分からぬ、ゆっくり地味めの、人物へ寄る、或いは(背ごしの)フォローの、目立たぬ縦移動か(通常の移動は別にして)。そのニュアンスは逐次新鮮に、ドラマの本質を無形に抽出して見せる。
 日本の欧州映画批評の最高権威·飯島正さんが、史上のテンに選んだこの作家の無声映画時代の代表作は、同じディーバが主演した傑作と共に、世界唯一の残存プリントが前世紀末にはそれ程でもなかったのが、今や殆ど劣化が進んでしまってる。それより前の準代表作はまだ大丈夫なようだが、これ以降の·名声はなくとも残る作品を掘り起こす事で、欠落の穴のいくらかは埋められてゆく気もする。
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