映画漬廃人伊波興一

エバースマイル、ニュージャージーの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

3.9
たおやかな時間の流れも振り返れば疾走の渦中に居たようです。
カルロス・ソリン『エバー・スマイル・ニュージャージー』

日本公開は90年を過ぎたばかりの頃だと思います。
私は大阪 扇町ミュージアムという雑貨屋やレストラン、雑誌ぴあ編集部などが入った大阪キタにしてはいささか風情ある趣の建物の中に設けられた、やけに天井の高い多目的ホールのような劇場で観ました。

当時の日本では、まだ配給の脇が甘くて手薄だったアルゼンチン映画二本です。
上映作品は
アレハンドロ・アレグスティの「シークレット・ウェディング/ 待ちすぎた恋人たち」と
カルロス・ソリン「エバースマイル・ニュージャージー」

どちらも未だに日本での知名度は低いですが両作品とも佳作の名に恥じない出来栄えです。

ただ、このアルゼンチン映画の紹介された時期が90年代前半だったことは二人の作家のみならずアルゼンチン映画全体にとっても不幸な話だったかもしれません。

阪神大震災や地下鉄サリン事件の後に本作が紹介されていたなら絶対に受け止められ方が異なっていた事でしょう。

そのくらいこの二本はたおやかな、不変の時間の流れが貴く描かれております。

「シークレット・ウェディング/待ちすぎた恋人たち」の魅力は、いつの日かその項目に預けますが
「エバースマイル・ニュージャージー」は何と言ってもダニエル・デイ・ルイスとミリャナ・ヤコヴィチのふたりが、映画なら当たり前かもしれませんが、役者としての魅力に溢れております。
事実、本作でヒッピーめいた歯科医を演じたダニエルは男優としては、しかもアイルランド系でありながら史上最多の三度のオスカーを受賞しておりますが、現時点で本作を越えるハマり役にはめぐり逢っていない、と自信をもって申しあげます。
ミリャナ・ヤコヴィッチも
『アンダーグラウンド』の彼女が悪いとは言いませんが本作の魅力と比べるればいささか見劣りする感が否めません。

このふたりが過ごすたおやかな時間の流れ。

それは何かが起こるわけでもなく、ましてや犯罪などを描いた映画であるわけもないのに、何かが起こりそうな場に居合わせてしまったような気分にさせられます。
言い換えれば、映画で語られている時系列的な時間の流れでなく、語りつつある映画特有の時間に違和感なく身を埋没出来る体験である、と意味で。
その体験がいかに心地よいか
21世紀以後の映画に奇妙に目立ちつつある、劇中に並列する複雑な時間構造を際立たせる作家的野心にいささか辟易している方ならお分かりいただけるのでは、と思います。

ダニエル・デイ・ルイス扮する青年歯科医が(虫歯撲滅)、というぶっきらぼうな志を抱いている以外はありきたりの二人が、ありきたりに出会い、共に旅に出るという物語を、破綻なく(!)物語る、という芸当。

カルロス・ソリンが個性的な作家とか、「エバースマイル・ニュージャージー」が未熟な映画好き少年に(わが青春の一本)と思わせるような純愛ロードムーヴィーという印象を招く訳でもでもなく、主題性や物語性に不可欠な弁証法を聡明に回避して、メロドラマの期待を昂らせないこのフィルムに定着しているさまに触れたら、
たおやかな時間の流れも振り返れば、不思議かつ貴い疾走感の渦中に居た、と誰しもが気付くに違うありません。