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暗殺のotomisanのレビュー・感想・評価

暗殺(1964年製作の映画)
4.4
 何かと面白げに話の尾ひれが付き勝ちな幕末ものにあって、清河八郎ならでは、観る者に媚びる用のない、面白くない男の評伝を思う存分作れたに違いない。実に才気に富んだ時代の寵児といえ、なんとも鵺のような心底の知れない男の生き死にの話で、犯罪小説のような忌まわしさに満ちた展開が、燐光ひとつで描いたような色香の抜け落ちた絵によく似合う。
 清河・哲郎、いかに才気に富もうと、人を使おうというにはやけに情味の薄ぼけた斑模様にて、内偵の者に貶し倒されれば首を刎ねる(殺人初犯)わ、背信を問われ弁明をと哀訴する追従者には斬撃で応えるわ、誠にいのちに淡白なあしらいで、かと思えば妻お蓮の死に際しては国許へ切々と弔いの書簡を認める。好悪明確に違いないが、所詮殺人の追及を受け自らは卑劣にも自殺を偽装し遁走、妻女なら当然あるべき拷問と獄死の懸念にも留意なく置き去りにした女である。まさに"清河幕府"を天命と嘯く君子然の振る舞いである。こんな男が悪党でない筈があるまい。いや、ほんの田舎娘をして、清河の妻たるの矜持が捕縛を動ぜず受け止めさせたものなら、かくも人を魅入らせ立志を起こさせる魔性の持ち主かもしれない。
 果たして、才走ってその才に魅了された者に後塵を拝ますを楽しんだ末、飽きて見放すという、子供じみた男でもある。同志を募れば、常に自らは別格を求め和合を拒む。黒谷の浪士隊集会での勤皇党旗揚げ宣言の大博打、同士には腹切りの覚悟を迫り、自らは華やかに政見表明を独演するのを頂点として、観られる事を楽しみ、抜群を保つことに快を覚えるの類で、遂に優れた識見も行動力もそんな楽しみに空費したあげく敵ばかり増やし、というより他者からは猜疑のみ募らせる余計者と目され、結果死ぬ。
 ただ、この死がいい。当初勝てぬ事に窮した幕臣佐々木只三郎の探究が、町方与力の証言を引き出し、与力が推奨する妻お蓮の手記の読解に繋がり、清河の人となりを暴き勝機の如何を掴むに至る。青眼の士を装い至近より一撃する。もちろん尋常の立ち合いではないが、策を弄そうとも毒を制するの一事での仕儀である。暗殺の手段に過ぎぬといえ、案外、楽しみばかりに汲々とした清河がたどり着けなかった、楽しくなく負けられもせぬ闘いへの臨み方だ。泥を被る気のまるで起きなかったろう清河には伏して成就せねばならない政治課題などは到底叶いはすまい。だから、あの時のこんな死でいい。
 こんなうんざりするような話にもかかわらず、悪党清河を究明する事が、凶悪犯のプロファイルのような面白みで眺められるのも新鮮だ。かの与力の岡っ引き斬首現場に関する証言とお蓮の手記を勧める語り口があたかも現代の捜査官が犯罪学徒を教導するような口調を帯びる辺りの身近感が観る者の気持ちをそそる。今時の事件ものの陳腐さに飽きたら観てみるといい。
 面白くもなく楽しくなど更にない本件は、嫌味な清河の人生の無駄遣い振りが、実は当時の日本で大きな損失だったかもしれないと思わせてもいる。しかし、孟母三遷ではあるまいに母親随伴で諸国見分を果たして立志?後塵を浴びる追従者を要する?こんな清河の一人立ちならず天下随一を誇るという、まさに奇妙な捩子くれ秀才の短い賞味期間の末の傷む寸前を捉えた悪意の生態録である。
 いやなやつだが、多くの者にとって進路の右とも左とも見定め難い時代に、より良く視野を得ていると思われた清河の冷たい眼さえもありがたく思えたろう事も、かの時代の対立即殺人となる忌まわしさを助長する結果を呼んだに過ぎない事で何とも禍々しい人生だ。観終えれば、色を伴わない全編とりわけ各闘場が異様に美しいのは燐光どころか清河の眼の冷光ゆえであったかとさえ疑わせるだろう。
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