まりぃくりすてぃ

プラダを着た悪魔のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

プラダを着た悪魔(2006年製作の映画)
2.5
ダサ着だろうがオシャレ着だろうが何を纏ってもどう行動しても主演女優アン・ハサウェイひとりが最初から最後まで一本調子に美しく、ほかの俳優は全員ルックス弱者。アン・ハサウェイに一瞬でも脅威を与える主要俳優がただの一人もキャスティングされてない。
そのため、「主役アンディの、というより主演者アン・ハサウェイの、無双」の近辺で幾人かがゴチャゴチャやってる、という物語印象しかない。作った人たちは「いろいろ波風を描いたじゃんか。スポ根ならぬオフィ根、ナカナカでしょ」と抗弁したいだろうけど。
付録慣れしてる近頃のレディースにとっては、ファンデかヘア液か美顔マスクぐらい貰えるんでなければ、これ観る甲斐はほぼない。(DVDには特典ドラマみたいの入ってるみたいだけど、見ない。)
とにかくアン・ハサウェイの完璧にして単調な美をぱくぱく味わうためだけの110分だった。こういう内容は、小説で読めば充分。(と思ったら、これ小説原作モノだった。)

その、一本調子について。
ローマで髪バッサリしたオードリー・ヘプバーン、メガネを持ってかれたタリア・シャイア(その亜流のビビアン・ソンら多数)、頭を丸めて再登場したヴィッキー・チャオ、暗がりからお粧ししてパンパカパーンと浮き出したチャン・ツィイー、みたいに、それまでメゾピアノぐらいだった美がフォルテになるの、トロけるね。
本作のアン・ハサウェイは、そういう凸凹が本当に一度もなくて、ボロを着てても泣きっ面してても単にステキで、私たちはひたすら女優アン・ハサウェイの味方(くれぐれも云っとくけど、主役アンディの味方じゃない)でありつづけて終わる。上司とか先輩とか恋人とかハゲとかに感情移入する機会はない。忙しいからね、私とかは。
せっかくの休日を、これ観てシゴトさせられたみたく沈まされたよ。。

「美」と「オシャレ」と「ファッション」はそれぞれ無関係語。
「美しい」=「外面的感覚的な魅力がまるで “内面的精神的な善を伴ってる” と期待錯覚させるほどに人の心を動かす、または、内面的精神的な正しさがまるで “外面的感覚的な正しさ” に成り代わって人の心を動かす」
「オシャレ」=「見られることやイメージされることを意識して自分を飾り、なおかつ、相手を魅了している」
「ファッション」=「身を飾ることにかんする流行」。

日常を生きる私たち一人一人を主(あるじ)とすれば、まあ、トップモデルさんたちは私たちのための光源になったり投影になったりする特別な存在だとして、、
ファッション業界全体は、私たちの僕(しもべ)にすぎない。雑誌社の人々なんてのは私たちにとって端役や黒子にさえならない石ころであり、しかも、雑誌やブランドが係わる領域は元々「オシャレ」と「ファッション」だけだ。どんな時代においても、ファッション誌は「美」とは直接つながらない。
美は、装い方に影響されない。裸だろうが泥だらけだろうがモンペ姿だろうが囚人服姿だろうが男装しようが糞尿にまみれていようが、美しい人は美しいし、美しい時は美しい。そして、私たち全人類が、基本的には美にこそ無天井に興味がある。(映画は特に美と関係が深い。)

そして「アン・ハサウェイひとりがひたすら一本調子で美しかった」の本当の意味は、「鑑賞者にとってはアン・ハサウェイはずっとずっと善だった。ほかは自動的に全員悪だった」ということ。リアリティーのかけらもないそんな映画が面白いはずがない。それはまるで相手ゴールキーパーのいないPKだ。淡々勝利というラストが決まりきってるすごろくに、魂の成長など誰も見出せないし促されない。
もしもアン・ハサウェイ以外にも美男優・美女優をごろごろ揃えれば(そういうのを何の気負いもなくやれる国はグルジアかロシアしかないけど)、これは秀作になったかも。美と創造的狂気と崇高さにしか私たちは本当には惹かれないのだ。(『ローマの休日』にグレゴリー・ペックが絶対に必要不可欠だったことは、すべてのコアな映画ファンに理解されてる。。。)
本物をめざしたら、芸術は嘘がつけない。作り手にとっては恐ろしいことに。最初から最後まですべての助演者が「アン・ハサウェイ、あなたには誰も敵いません」と白旗あげながらアン・ハサウェイへの優越者を演じてる様子は、残念ながら白々しい。
商品物品としては豊かな可能性を平凡な漫画っぽさとモダンな華やかさの中に持つものの、小説の映画化としてはあきらかに失敗作だ。キャスティングと見せ方のせいで。

[つたや]