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サラエボ、希望の街角のodyssのレビュー・感想・評価

サラエボ、希望の街角(2010年製作の映画)
2.2
【テーマの難しさに映画が追いつかない】

この監督の前作『サラエボの花』は、旧ユーゴ戦争によって心身共に深い傷を負いながらも立ち直ろうとする人々の姿を描いてそれなりの作品になっていた。同じ監督の映画だというだけの予備知識でこの『サラエボ、希望の街角』を見てみたのだけれど、今回は「どうかな」という出来じゃないだろうか。

本作は、サラエボで事実婚をして暮らしている若い(といっても30代だけど)男女のカップルをめぐるお話である。ネタバレになってはいけないので詳しくは書けないが、イスラム教徒内部の亀裂がテーマになっている。

イスラム教は日本人にはあまり馴染みがないし、かく言う私だってよくは知らないわけだが、いわゆるイスラム原理主義を信じるイスラム教徒は一部に過ぎないので、多くは近代化・世俗化を受け入れて他の宗徒とも仲良くやっていこうという人たちなのである。

しかし、旧ユーゴの解体によってイスラム原理主義が台頭し、イスラム教徒の内部に対立を呼ぶことになる。近代化は西洋のキリスト教的な価値観を受け入れることなのか、そうではなく普遍的な世界人になることなのか、イスラム教徒でも人により見解は分かれてしまっている。

この映画は、そうした対立が若い男女のカップルに生じるという筋書きで話が進む。ただし、監督はあくまで近代化支持であり、映画は明らかにそうした視点で作られている。

私自身は近代化を支持する監督の立場を理解しやすい、というか、明治維新以降、基本的に近代化路線を突っ走ってきた日本人としては、イスラム原理主義はよく分からないというのが正直なところだろう。

しかし、である。かりにもそういうテーマで映画を作るのであれば、イスラム原理主義に走る人々の心情も内在的に捉えなければいけないのではないか。いったい、イスラム原理主義者は皆バカで、近代化を支持するイスラム教徒は皆まともなのか。そういう二分法では問題は解決しないし、人間というものの本質に迫ることはできないはずだ。

原理主義にイカれるのはイスラム教徒だけではない。キリスト教徒にだって、特にアメリカには原理主義者が多い(ダーウィンを学校で教えることを拒否するなど)。

そうした現象がなぜ起こるのかについて監督はまともに考えたことがあるのだろうか。そこまで行かないと、このテーマを映画で取り上げても上っ面だけの綺麗事に終わるしかない。そして残念ながら、この映画は上っ面を撫でて終わってしまったように思われるのである。
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