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ロッキー・ザ・ファイナルの教授のレビュー・感想・評価

ロッキー・ザ・ファイナル(2006年製作の映画)
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「ロッキー」シリーズを観たか、観てないかで人生の豊かさは変わる。
僕が本作を観て感じた感動を感じられない人よりは、僕の方が絶対に幸福な人生だ!
と決めつけてしまいたいくらいの傑作。

「ロッキー」第1作から数えて、30年。
その中で、変わらないもの、変わっていくものの大きさ。
それでも現実は重く厳しくてつらい。
本当に多くのものを失っていく。
その最たるものが、ロッキーにとってのエイドリアンだ。

冒頭から繰り返される墓標の前で、椅子に腰掛けて(つまりは、ここで長居をするぞ!ってこと)死者と対話する日々。
慣用表現として、流すように墓標の前で嗚咽するような凡庸なシーンは腐るほどあるが、その椅子という小道具だけで、多くの感情を描写し、また、ここだけでもシリーズの歴史と重みを感じられる映画的シーン。

やはりいつもさりげなく、自分の裁量で明言を吐くダメ人間、ポーリーも年老いて過去を悔いる日々。
何も説明されないけれど、絵なんか描き始めていて…人生の罪と罰を感じる。

社会の現実や変遷の中でそこを泳ぐことに必死な息子とはやや疎遠。エイドリアンの墓参りにも来てくれないが、そこにだって偉大過ぎる父のプレッシャーがある。

それら全部引っくるめて「アメリカの夢」だった物語の残骸のように、重苦しく悲しい。
エイドリアン演じるタリア・シャイアがいないだけでも、画面の喪失感はものすごい。

自身の経営するレストランで、「過去の人」になりきるロッキー。
「ピークの過ぎたスター」として、スタローン自身の我が身を省みる姿勢。
それでも映画しかない、映画で表現して演じたいというスタローンとロッキーはまさに私小説的とも言うべき分身。

それら言葉にすればありがちなことを最大限に映像表現として、物語としての実在感を高めながら見せつける。

何よりシリーズ最終作にして、最後のボクシングシーン自体のリアルさはシリーズ屈指の出来。
からの、ラストの見事さ。

勝つことで笑顔を手に入れてきた男の、最後の満面の笑み。
もうこれ以上ない、やりきった。
その見事に充実した姿。
それもセリフでなくシーンの迫力と表情だけで語られ「あーこれは映画だ」という惚れ惚れしてしまう。

それだけでもお腹いっぱいに満足なのに、更なるプレゼントのエンドロール。

30年。

スタローンと、観客の歴史。
映画を、「ロッキー」を、スタローンの人生を。観客に「ありがとう」でいっぱいの最高の映画!
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