ケンヤム

BULLET BALLET バレット・バレエのケンヤムのレビュー・感想・評価

4.8

私は「それでも」という言葉が好きだ。
「それでも、頑張ろう」
「それでも、生きていくしかない」


「それでも」という言葉には、諦めることの強さと諦めないという美学がどちらも内包されている。


この映画は、まさにそんな映画。
失うことや暴力に対して、無感覚な東京という荒みきった街。
それを見てみないふりをする、東京に住む私たち。
皆、狂ってる自分を隠して生きている。
ある人は、スーツを見に纏い隠す。
ある人は、家にこもって隠す。
ある人は、派手な服を着て隠す。


狂った自分を外にバレないように、隠すことで、狂った自分を認識できなくなっている。
それが、東京という街の本質であると思う。


しかし、狂気の隠蔽は些細なことですっかり暴かれてしまうものだ。
些細なことで、足元の地盤が崩れて、自分の足場がなくなり東京という街から居場所を失う。
この映画から言葉を借りると「自分が糸の切れた凧みたいに、どこに飛んでいくのかわからなく」なる。


居場所を失うということは、生きている実感を失うということだ。
痛みに無関心になった瞬間に、生きている実感を失うのが人間であると思う。
主人公は、彼女を失った衝撃で痛みを感じない身体になり、生きている実感を失った。


主人公は、「痛み」=「拳銃」を求めて東京という狂った街を彷徨う。
その過程で、同じ境遇の人々と出会う。
出会って、殺しあう。
痛みを求めているもの同士、痛みを与え合う。


その結果、空き地での火葬シーンに繋がるわけだが、主人公の男と女はあの時久しぶりに鮮烈な痛みを感じたのだと思う。
東京という街への絶望という痛み。
仲間を喪失した痛み。
そして、銃で撃たれた傷口の身体的な痛み。


暴力へのリアリティと痛みへのリアリティを取り戻した二人は、東京という絶望の街を歩く。
そして、走り出す。


「それでも、生きていくしかないんだ!」
「東京という街で、がむしゃらに生きていくんだ!」


私には、ラストシーンがそんな風に見えた。
失われゆくものへの、無関心。
痛みへの、無関心。
暴力への無関心。
無関心が蔓延する現代には、痛みを突きつける映画が必要だ。
そこからしか、前には進めない。
ケンヤム

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