yoshi

天国の門のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

天国の門(1980年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

夏が終わりを告げ、物寂しい秋が来ようとする頃、ここ数年、所有DVDで見てしまう映画がある。
それがこの作品だ。私が所有しているのは、223分の「オリジナル完全版」である。

「アメリカ映画界、最後の映画監督」と言われる私の好きな映像作家の1人、マイケル・チミノ監督の大長編作品。
歴史的な興業的失敗作だが、作品自体は決して失敗作ではない。
この作品は記録に残るだけでなく、映像の美しさと無情な話が記憶にも残る映画だ。

「面白かったが感動しない、記憶にも残らない超大作」という映画に良く出会うことがある。
昨今のアメリカ映画の超大作の大半が、あまりに安全すぎて退屈だ。

鑑賞中は非常に面白い。視覚的な映像の美しさや生身ではあり得ないアクションはCGによって格段の進化を遂げた。
問題は心に訴えるモノが少ない、心に響くモノが少ないということだ。
どれもこれも予定調和的であり、映画監督の個性というものが失われている時代なのだ。

現在のあらゆる観客層に程よくマーケティングされ、ありとあらゆるリスクを排除された安全で退屈なアメリカ映画の超大作は、まるでどこぞのファストフードのようだ。
「あぁ、あんな味ね。じゃあみんなで食べても大丈夫。」クセがなく、万人向けで、食べても原材料は何かといった考察や味わいの余韻に浸ることがない。

映画作家の個性が失われた問題の原因が一体どこにあるのかと遡ると、この「天国の門」という一人の完全主義者の芸術家による野心的で壮大な失敗作に辿り着く。

あまりにも長い不幸の元凶がこの映画の影響なのだから、その呪縛と根の深さたるや、尋常ではない。

現在のアメリカ映画はその早すぎる隠居生活を静かに終えて、この世を去った20世紀末を代表する巨匠(と言わせてほしい)マイケル・チミノの「天国の門」の呪縛と呪いから、未だ開放されてはいない。

この作品はチミノにとってかなりの意欲作であり、撮影期間と予算の超過による巨額の製作費がかけられた。
しかし、批評家が「災害」と投稿するなど評判が散々だった。

それもそのはず、当初5時間以上で語られるはずだった物語を「長すぎる!、1日に何度も上映できない!、製作費が回収できない!」と金を出したスタジオ側が、映画を2時間程度にズタズタにカットしたからだ。
その結果、製作費に比べて、内容が乏しく(伝わらず)興行成績が奮わず、製作会社が倒産に追い込まれるという「映画災害」を引き起こした曰く付きの作品である。


私はマイケル・チミノ監督を「司祭」と個人的に呼んでいる。
彼の少ない作品群は、共通する個性に彩られている。

画面を華やかに彩る美男と美女が登場する。
物語は主に男性二人を主人公に据えて、友情や争いを描く。
センチメンタルな音楽が絶えず流れ続け、
冠婚葬祭の描写に力を入れ、殊の外時間を割いている。
物語の最後は二人の男のどちらかが死ぬ。
壮大な大自然の風景により救いがもたらされ、スピリチュアルな詩情を持って終わる…。

本作は、1890年代のワイオミング州を舞台にしたロシア・東欧系移民の悲劇を描いた西部劇だ。

牧畜業者組合の牧場主達が、入植者達を殺すために傭兵を雇うという事件ジョンソン郡の土地紛争である「ジョンソン郡戦争」をモチーフにしている。
西部劇の名作「シェーン」に描かれる背景を深く扱ったものだ。

(実際には劇中のような激しい戦闘は起きなかった。 また実在の人物名を使っているが、実際の立場とは違うらしい。)

しかし実際の映画の内容は、ジム・エイブリルという孤独な男の一代記だ。

1870年のジムのハーバード大学卒業式とそれを祝う長い馬鹿騒ぎから映画は始まる。

卒業とは青春の終わりであり、学生という半人前の身分と堅苦しい学問からの解放であり、喜ばしい新たな旅立ちでもある。

「これからの君たちの新しい義務は、ここで得た教養を世界に広めることだ。」という校長の素晴らしい祝辞もどこ吹く風。

これからの世界は自分たちのものだと言わんばかりに卒業生は若く溌剌としており、希望と野心に満ちている。

同級生のアーヴァインが「このまま死んでもいい」というほど、皆が幸せに満ちている。

この卒業式での多幸感が、その後にジムが目の当たりにする悲劇を際立たせる。

そして場面は20年も飛ぶ!

20年後に保安官として登場するジムには、若さも溌剌さもなく、希望も野心も伺えない。
そこに映るのは、厳しい現実に辛酸を舐めたであろう、若き頃の仄かな理想は打ち砕かれたであろう、疲れ果てた男だ。

この20年にジムに何があったか?
その説明などいらない❗️と私は断言する。
老いるということは、理想と現実と折り合いをつけて妥協することだ。

(この極端な時間飛躍に、説明不足という方もいる。もしかしたら5時間超の編集版に描かれているのかもしれないが。)

ジムはワイオミング州で小規模移民牧場主となっていた大学の同級生アーヴァインと再会する。

そして大規模なWASPの牧場主リーダー達による牛泥棒根絶に名を借りた移民農民の皆殺し計画を知ったアーヴァインは、エイブリルに相談を持ちかける。

エイブリルの恋人のフランス系移民エラと、彼女を愛する恋敵、牧場主の雇われガンマンのネイトを中心にストーリーが展開する。

今作の核となる部分は、いい歳をした主人公ジムの繊細さと青臭い恋心だ。

大学で理想主義者になったものの、現実の厳しさに挫折しかけていた男が、勝ち目のない戦いに身を投じる。

後腐れがなく、割り切った関係でありながら、天真爛漫な少女のようなエマをジムは愛しており、エマを救うだけのつもりだった。
しかし、彼女を取り巻く移民達の貧しさや過酷な労働への同情と、保安官としての職務への責任感から、ジムは争いに深入りしていく。

それは皮肉にも、ジムが失いかけていた生への活力を次第に甦らせていくが、最終的には悲劇が待っていた…。

これは監督の前作「ディア・ハンター」にも通じる骨子だ。

主人公は直接自分とは関わりのない歴史的出来事にのめりこんだ挙句、最終的には人生の意義を再度見失ってしまうというほろ苦い結末。

作品の良い悪いは別にして、個人のロマンと、人物が巻き込まれる時代の影の部分を対比させるところがチミノ監督の本領である。

チミノ監督映画に登場する人物は、いつも未来を見据えているロマンチストである。
恐らく監督自身もそうだったろう。

アメリカ映画という保守的なフロンティアに、アメリカ本来の自然と人間の美しさをいかに映し出すかを開拓しようとしたロマンチストだ。

それ故にこの作品でも、登場人物の過去について、なんら説明がされない。
かといって物語が進行するにつれて、登場人物が、ハッキリと何者かかわかるような工夫もされていない。

なぜジムは保安官になったか?
エラはなぜ移民となったか?
なぜ娼婦になったのか?
ジムは何年ぶりに帰ってきたのか?
エラとジムの馴れ初めは?
ネイトとジムの関係は?
なぜジムとネイトは、なぜ娼婦であるエラに固執するのか?

そういった部分は全くはっきりしない。

こういった部分は作品の中に必ずあるだろうから、読み取るべきであるという意見もあるだろうが、私の考えは違う。

そんな過去など、どうだっていい❗️
今を必死で生きる人間にとって、過去を振り返る必要など無いのだ❗️

223分の作品は、小説で言えば長編小説である。
「説明不足なトルストイ」と評した批評家がいるそうだが、それは的外れ。
チミノ作品では、過去は振り返っても仕方がないものだ。

これは他のチミノ監督作品でも同じような感覚が味わえる。
出来事ばかりを淡々と追い、主人公の本音が言葉では、なかなか伺えない。
その心情や苦悩は俳優の演技から読み取ってくれと言わんばかりだ。

私たち観客は俳優の演技から、「こう思ってるのではないか?」と想像力で補完しなければならない。
それは文学小説の行間を読む作業に似ています。

チミノ監督世界が見ている者を、その世界に埋没させるのは、登場人物が置かれた場所の緻密なディテールと美しさ。そして登場人物が直面する事件に、現在進行形で巻き込まれ、翻弄される切迫した姿である。

「貴方ならどうする?」と監督に問われていると同時に、事態に直面する人間の心情を察するべきなのである❗️

チミノ監督作品の登場人物たちの最後の選択は、いつも美しく、そして悲しい。

ジムは移民を守る闘いに自ら身を投じ、
ネイトは牧場主側に襲われ、エラに手紙をしたためた後、覚悟して死ぬ。
生き残ったエラはジムとの結婚を決意するが、凶弾に倒れる…。

チミノ監督は、いつも壮絶な人生を、祝いの場の美しい思い出と対比させる。またはその人生を慈しむように葬儀を映し出す。

生きる喜びを感じる祝宴と生を終えた後の悲しみの場に、真摯に立ち会い、ロマンチックな言葉で語ることのできる「司祭」なのだ。

「人生の中で、思い出は美しく磨かれていく。」
これが本作の後に尾を引く余韻である。

1903年に物語は再び飛ぶ。
一人生き残ったジムは船上でかつては美しかったが、いまや美貌も衰えた薬物依存症らしき何も出来なさそうな妻(エラが一命を取り留めたのではない。全くの別人。)と上流階級の暮らしをしているのが映し出される。

しかし、ジムは頭を抱え、ため息をつき、決してその暮らしが幸せではないことを訴える。

ラストカットは、センチメンタルな音楽と共に、その場にいることが居たたまれなくなり、船室を出て一人物思いにふけるのである。

充実していた若き日の思い出が、ジムと観客の中で光り輝き、恵まれているが退廃的な生活は虚しく描かれる。
死に場所を得られず、生き残ってしまった男の悲しさを持って、物語は終わりを告げる。

この終わり方は本来は魅力的なはずだが、映画が長い割にはジムは闘いにも破れたため、カタルシスがなく、しかも救いようのない終わり方だと感じる。

フロンティアを生き抜くヒーローが多い西部劇において、負け犬の姿だ。

その原因は、この主人公ジムの現在の妻とかつて愛したエラを天秤に図るような行動が、感情移入しづらいからである。

そんな負け犬ならば、まだエラと一緒に死んだ方が、映画として完結していたと見ている側は感じるのだ。

しかし❗️
無様にも生き残るのが人生だ❗️
もし貴方の身の回りで誰かが死んだとしたら?
死んでしまった者への想いが強ければ強いほど、その者たちの分も生きようと思うのは人情というものではないだろうか?

太く短く生きることを欲するのは若い証拠である。
この映画は映画に娯楽とカタルシスばかりを求める人には理解できない。

歳をとればとるほど、無様にも生き残ってしまった悲しみとともに、若き頃の思い出が、遂に人生最上の経験として心の中で磨かれ、秘められて行く様を描いた映画だ。

私もそうだったが、この作品は若い人には理解が難しい映画だろう。

若い頃に借りたVHSの2時間バージョンでは、時間が飛ぶ以上に、ジムの行動原理が理解できなかった。

完全版はジムが守ろうとした北欧移民の姿が描かれたことで、迷えるジムの中にある正義と個人の葛藤にシンパシーが湧いたのは事実。

ラストシーンの後のジムは、安穏とした暮らしの中で、ただ朽ちていくだけなのだ。

本作で描かれる断片的なエピソードの積み重ねは、ノスタルジックであるとともに、これといった着地点が見えない。

それは私達の人生の記憶と同じである。
歳をとればとるほど、今後も味わい深くなる作品だ。

この映画を秋に見たくなるのは、自分の人生が秋に差し掛かっているからなのだろう。
この作品を40歳そこらで作り上げたマイケル・チミノはやはり非凡である。
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