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アウトローのKuutaのレビュー・感想・評価

アウトロー(1976年製作の映画)
3.7
夜の闇、夜明け前の薄い青、昼の澄み渡った青空。光と影とその中間、3階層を彷徨い続けるジョージー(イーストウッド)。

家族を殺された彼は、文字通り影を背負って殺し続ける。人の顔に当たる照明、室内での陰影、曖昧な日光の捉え方など、撮影で物語る意欲が感じられる作品だった。

舞台は南北戦争終結後のミズーリ。南軍の残党は「アウトロー」扱いだが、ミズーリ自体は双方の勢力が入り混じっていた曖昧な土地。この州の複雑さは、橋渡しの男が歌う歌を、客が北軍か南軍かに応じて変えるシーンにも現れている。

まさに「綱渡り」しているボートは、紐が切れれば当てもなく流れていく(ジョージーの役目は縛られた仲間の紐を切る事だと繰り返し描かれている)。

越境する孤独な男は、ミズーリからテキサスへ南下する。その過程で、マイノリティと疑似的な家族関係を築く、というお馴染みの展開を辿り、少しずつ「光」に近づいていく。

冒頭、ジョージーは家族のために墓に建てる。泣きながら十字架にもたれかかると、十字架は傾き、倒れてしまう。仲間の若者が死んだ場面では、もはや彼は死を弔わない。遺体は敵の目を誤魔化すための囮に使われる。

ようやく辿り着いたテキサスの「家」、窓には十字の格子が入っている。窓を次々に開ける事で真っ暗だった部屋に光が差し込んでいく。

「雲は心という青空に浮かぶ夢」
→ヒロインは白いドレスを着る。かつての妻も白い服を着て、川の向こうからこちらに手を振っていた。夜でも輝くその人は、世界から少し浮き立った特異な存在。ただ、最後にはライフルで応戦するようになる辺りがイーストウッドらしい。

ジョージーは父になれない。実の息子が殺され、疑似的な息子になると思った若者もあっさり死んでしまう。次のシーンで出会うのがチェロキー族の老人。ジョージーは息子として産まれ直していく。

この老人は劇中ではコメディリリーフ的な役割を背負うが、精霊の声に基づいてジョージーを導く存在でもある。「太陽を背にして戦うのが優れた戦士」「我々は太陽に向かっている」。太陽をめぐる言葉遊びも登場する。

最後の復讐を果たす手段は影ではないし、銃弾でもない。空撃ちをしながらトラウマのモンタージュ=編集で追い詰め、かつて自分が切られた軍刀で仕留める。その表情は苦々しい。

(敢えて言えば、銃で殺される人はモブキャラだ。道中で仲間になるインディアンの女や、コマンチの酋長は、刃で体に傷を刻み込む象徴性を体現している)

街の建物の影の中から、彼は荒野へ飛び出す。太陽に向かって走る姿を逆光で捉えて映画は終わる。きちんと太陽が映るのはこのラストショットだけ(のはず)。

終盤の展開で彼は「死んだ」ことになる(血を流す短いショットが本当に死んだのかも、と匂わせる。この辺の見せ方は流石)。このお話が、亡霊が文明に復讐する「荒野のストレンジャー」に派生するのか、家に帰るのかは分からない。「越境」に明確にピリオドを打ったクライマッチョとの対比でも考えさせられた。
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