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恐怖の足跡のryosukeのレビュー・感想・評価

恐怖の足跡(1962年製作の映画)
3.8
開始早々、狭い橋の上に車が並ぶとあまりに呆気なく柵が壊れ、車は水中に吸い込まれていく。人命を飲み込んだ水面は平然として表情を変えず、流木に沿ってクレジットが斜めに表示される。この低予算短尺B級ホラー特有の命の軽さ。現実世界ではとにかくその重さが強調されがちな人の命を軽々と放り捨てる快楽がある。「サイコ」のように車が引き揚げられる代わりに、泥だらけの女が忽然と現れ、こちらに歩いてくる。どうやって彼女が脱出したのか、何故湖沿いの廃墟に惹かれるのか、謎の男は何だったのかという疑問に一切答えず進み(それ故、怖がっている側のはずの主人公にも不気味さが付きまとう)、そのまま終わっていく不条理な感覚が良い怪作だった。
窓の外に現れる謎の男の顔には濃厚な悪意、殺意は感じられず、むしろどこかコミカルな印象もあるのが逆に不気味。車内を覗き込む表情にインパクトがある謎の男は、監督ハーク・ハーヴェイが自ら演じているようだ。車の窓に張り付く霊の顔ってのは今では定番だろうが、この時代はどうだったんだろうな。続いて挿入される闇の中に立ち塞がる男のショットは、現実の光景というよりは抽象的な恐怖、不安そのもののようであり、それを避けようとした車は再度道を逸れる。
リンチの「ロスト・ハイウェイ」への影響も言われているようだが、霊と言うにしてはあまりに確かな存在感のある、遍在する謎の白塗り男は「ロスト・ハイウェイ」のミステリー・マンそのままだな。
教会のオルガン奏者をしている主人公だが、彼女はあくまでそれを仕事としか考えていないということが強調される。この辺りの描写は、彼女を襲う不可解な出来事が信仰心の欠落に由来するのだと示唆されているようにも思う。その上、彼女は誰とも親しくしたくないという、主人公としてはかなり特異なパーソナリティーを有している。キャンディス・ヒリゴスは他作品にはロクに出演していないようだが、大きな目と骨ばった顔の美形は(例えばバーバラ・スティールのように)ホラー映画ヒロインに相応しいものだった。
彼女が廃墟に向かうシーンの、人も車も通らない道を自分一人が乗った車で進んで行き、誰もいない広々とした廃墟を彷徨う様子は、自分しか存在しない彼女の主観的世界を象徴しているようだ。突如スロープを滑ってくる布団や、だだっ広い空間を歩くヒロインの影が長く伸びる様を巨大なシャンデリア越しに捉える大俯瞰など、この廃墟は魅力的な空間として切り取られていた。
謎の男がどこまでも付き纏う恐怖を、シチュエーションを変えながら繰り返して進んでいくのかなと思っていたら、これが突如転換するのが試着室のシーンである。主人公が不穏な予感を感じて試着室から出た瞬間、世界から音が失われ、自分の姿も誰にも見えなくなっている。この辺りから、外部から怪異に襲われているのではなく、彼女の精神世界が丸ごと変質しているような感覚になってくる。
オルガンを弾く彼女の幻想として、おそらく廃墟になる前の過去のダンスホールの光景が重なり、早回しでクルクルと回転する人々を見ていると、謎の男が不気味な悦びを露わにした表情を見せ、幻想の中で遂に明確にこちらをターゲットとして迫ってくる。
車の修理工場のシーンで、持ち上げた車を下ろすためのハンドルを回す謎の男の手が挿入され、車がゆっくりと下がっていく描写。「フェノミナ」で車椅子を下降させ殺人鬼の元に送っていく装置などもそうだが、動き出してしまった機械によって恐怖の対象の元へと運ばれるという描写は、抗えぬ運命の恐ろしさがあって好きなんだよな。
自分の声が他人に届かない恐怖を感じた主人公は、反対に家主の声が聞こえないかのように無反応で去っていく。どうやら主人公の世界は限界が近いようだ。続いて、またもや音のない世界に迷い込む彼女。神や他者との繋がりを拒否した彼女に対して、世界の側も彼女との繋がりを拒否し始めたかのようだ。その世界で、代わりに彼女と接続してしまうのはこの世ならざる者に他ならない。音のない世界で唯一バスへの乗車を呼びかける音声が聞こえてくるなら、それはこちらの世界の乗り物ではない。バスを大量に埋め尽くす白塗りの人々がこちらに迫ってくるシーン。ロメロへの影響が言われているらしい本作だが、どこら辺かなと思っていたら、何とそのままゾンビの原型じゃないか。
世界から遊離してしまった彼女にとって、この世界のルール、科学を語る医者の助けはもはや間に合わない。医院に駆け込んだ彼女の話を背を向けて聞いている男が振り返ると、大方の予想通りアイツの顔が現れる。
理由は分からないがとにかくキーポイントとされている以上、この物語のクライマックスは廃墟に向かうしかない。主人公は、ダンスホールで謎の男と自分が踊っている決定的な瞬間を見てしまう。あちこちから現れる白塗り人間たちのコミカルなおふざけ感が逆に怖い。ゾンビの源流を感じさせるとはいえ、彼らは素早く走ってくるのだが、手を前に伸ばしながら彼女を追い詰め、真上を向いた主人公の主観ショットでカメラを覗き込む白塗りが画面を塞いでいく瞬間など、ゾンビ映画の文法と言ってよいだろう。
そして、彼女の肉体は忽然と姿を消してしまう。世界との調和を拒んだ彼女には、遂に肉体すら不必要だと看做されてしまったのだろうか。車の中に現れる死体を見て、最初から死に際の悪夢だったと考えるのはつまらないように思う。むしろ、神と、他者と、世界と接続するチャンスをふいにした主人公は、遡及的に「死んでいた」ことにされてしまったのだと考えたい。
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