西川美和は新たな倫理を作れるか③
西川デビュー作。西川是枝組なんでこれも是枝プロデュース。一作目から面白い。
僕らの世界は硬直するとは浅田彰や山口昌男の意見を敷衍するまでもない。そんなときには「周縁」から硬直した世界を修復にかかる。そうネタ的にはニューアカデミズムで繰り返された論理だけど(トリックスター論)それをいかにも周縁である芸人、宮迫が演じるのが面白い(牛宮城は大丈夫だろうか)。
それはそうと僕らは本当に大丈夫だろうか。普通に見える家庭でも実は普通ではない。父は借金だらけ、母は義父の世話に疲れ見殺しにする。娘(つみきみほ)は唯一まともだけど「正論」しか言わない。
そこに兄(宮迫)が帰ってくる。彼は父親に勘当されたんだけど事態を収束させる「力」があった。そして家族はどんどん兄中心に。
うっすらわかる方もいると思うがこの「うまくいってない家族」に異人が入ってくるという構造はそんなに珍しいものではない。ハネケのファニーゲームや森田芳光の家族ゲームはその典型だ。ただここでの異人は「血をわけた肉親」だというのが面白い。そもそも家族は「血を分けた」以外に何の意味があるのであろう。そう、何の意味もないんだ。そこに「義務」もましてや「権利」もない。私たちは生まれながらに「家族とうまくやっていく」なんて理由はないんだ。
そこを西川は見つめる。家族だから「やって当然」、家族だから「正しくて当然」家族だから「助けて当然」、でも本当にそうなんだろうか。西川の嘲笑が止まらない。
そして否定して否定して否定して最後に残ったほんの些細な気持ちこそが「家族である」というのかもしれない。それを西川は「蛇イチゴ」の隠喩で語る(最後の宮迫とつみきみほの森のシーンはなんと揺さぶるのだろうか!)。蛇イチゴは酸っぱく食べられない「イチゴ」だ。それでもイチゴはイチゴなんだ。家族を散々否定しているのに宮迫の行動にはある種の「やさしさ」がある。宮迫が「お母さん」と優しく語るのは90%が演技だとしても妙な「慈愛」に満ちている。
ほんの10%の慈愛、それが家族かもしれない。
※家族が実はうまくいってないという構造は小説でも結構ベタである。思いつくところで角田光代の「空中庭園」や平安寿子の「ぐっとらっくララバイ」など簡単に思いつく。たぶんみんなうまくいってないんだよ、僕も含めて。
※葬儀のシーンは最高のコントであった。棺桶からはみ出る笑福亭松之助に大笑いしてしまった。葬儀で笑ったのは伊丹の「お葬式」、津川の「寝ずの番」など以来(いや他にもあったな)。厳粛な場だからこそ笑いが出てしまうのだろう。僕は正座で足がしびれ焼香の時、みなの前で大きく転んで思いっきり笑われたことがある。あわてて手を置いたのは坊主の禿げ頭だった。木魚の読経の中、坊主の頭がポンと鳴る。
※やはり宮迫がいい。「純喫茶磯辺」「下妻物語」などいい演技だなぁと思っている。つくづく映画界はよい人物をなくしたものだ。牛宮城なんかやらなきゃいいのに。