いののん

オープニング・ナイトのいののんのレビュー・感想・評価

オープニング・ナイト(1978年製作の映画)
4.4
映画の中で演劇が上演される。老女の大きな写真が2枚。まず、演劇のこのセットが好きだ。なんか格好いい。


①映画の中で演劇の稽古や本番があり、各々が、役者として、それぞれの役を「演じる」。

②演劇の稽古や本番が終わって、宿泊先の部屋等に戻っての、登場人物たちのやりとり。これも、なんだか舞台で「演じている」ように感じてしまう。特に主演女優の大きな部屋。役者たちは、舞台の延長として、「演じている」ように見える。

③考えたら映画だってお芝居じゃないかと、あらためて思う。入れ子構造とかって、言うんだっけ?

④さらに考えたら、カメラがまわってないときだって、映画のなかじゃなくたって、役者じゃなくたって、普段、私(たち)は、演じているのかもしれない。


などと考え始めたら、アタシの頭のなかも、混乱してくる。境界が溶けはじめて曖昧になる。見えないものが見えてきて、意識下にあったものが形となって立ち上がってくるんだよ。会いたい人、会いたくなかった人、ホントは忘れたかった人、でも忘れられなかった人。そんな人が目の前に形づくられる。その人とは、私かもしれないし、あなたかもしれない。かつての私かもしれないし、かつてのあなたかもしれない。ぐちゃぐちゃだ。でも、もうアタシはなんだって受け入れる。


女優の壮絶な闘い。老いていくことの恐怖よりも、他者から、「老いた人」とカテゴライズされることの恐怖。他者によって、その範疇に押し込められてしまって、それで安易にわかった気になられてしまうことへの恐怖。自分では意識していなかったことが、偶発的な出来事などによって、自分の意識にのぼってしまう。かたちとなってあらわれてきてしまう。カテゴライズされてたまるものか。(それにしても、ジーナ・ローランズは本当に美しい。ジーナの口紅の色に、アタシはとても惹かれる。キレイな色のついた唇をじっと見つめてしまう。)


ジョン・カサヴェテス監督の妻であり戦友であり女優でもあるジーナ・ローランズが、映画の中で女優マートル・ゴードン(②)を演じ、さらに舞台劇のなかでバージニア(①)を演じる。ジーナが全身全霊で、この混沌を生き抜く。


ジーナが、ずっと目に涙をためている。泣いている時もあるけれど、涙を目にいっぱいためていて、今にも壊れそうになりながら、こちらとあちらを行き来してながら、でもなんとかこらえてふみとどまって立っている。その姿に胸を打たれる。立ち続けるということはこういうことなのかって、教えられるほどに。壮絶に生き抜いた末に、自己を客体化できたら、観客と一緒に笑えるのかな。壮絶を笑いへと変えていける。最後のやり切った感といったらそりゃあもう!


もし、今、あの時のジーナがここに立っていたとしたら。
大好きだけど、アイラブユーを連呼して300%の愛ですがりついて寄りかかるのは、ゼッタイやめようと思う。だめ、ゼッタイ!
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