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鏡の中のマヤ・デレンのニューランドのレビュー・感想・評価

鏡の中のマヤ・デレン(2001年製作の映画)
3.9
☑️『鏡の中のマヤ・デレン』及び『午後の網目』『DIVINE HORSEMAN(神聖騎士)』▶️▶️
マヤ・デレンの最高作は、その作品がリリースされた頃、映画監督のキャリアをスタートして、いまや日本の映画論壇で米映画界のTOPとして評価されている、イーストウッド・スピルバーグの全作の到達点を上回る(唯一、肩を並べられる偉篇『許されざる者』を例外として)、と断言できる。『午後の網目』としてもいいが(これも、体の部位・意識・神経症・夢・追跡と反復・室内外空間・高速度撮影・図内外の傾斜・鏡・白と黒・波や土の自然・刃物・鍵・他者~自己の中の~・複製・越境を精密に組み合わせた素晴らしい傑作であるは、数十年ぶりに確認した)、それを遥かに上回る作品がある。
何年か前、古本屋で、文化人類学と映像に関する古本を手にして、マヤ・デレンの作品に多くを割いてあったことに驚いた。えっ、そんな作品が? どうも気になって、暫く後、YOU-TUBEを捜すと、あった!! そしてその年の最も感動的な映画の一本となった。官能・自然・肉体が全くズレずに一体化した宇宙があった。 映画としても、その空間・時間・対象の繋がり・拓く可能性・密度・切れ間無、驚き吸い込まれる完全レベルだ。
本作でも扱ってる、'50年代以降、ハイチで実態・共感を究めたが未完となった、ブードゥ教に関するドキュメンタリーである(彼女の死後、十数年経って、1時間弱の未完品としてリリースされた、『DIVINE HORSEMEN』として)。憑依・超越・覚醒が、人間の自然・本能・最深、集合体として描かれている。一方で、中国人の太極拳を修める仕事仲間には、自然は憑依されるものではない、統制するもの、全ての対象は無だ、と言われてたらしい。こと左様にブラッケージのいうように、芸術家は複雑そのもののひとである。愛する恋する、安らぎたい、でもそれより映画創作。だけど時代に先んじていつもファッショナブル、肢体もたくましい。いつも怒りに満ちてて、小柄なのに冷蔵庫をブン投げて皆を怯えさせたことも、しかし共同作業が得意で皆を惹き付ける。そのくせ内面は傷つきやすく、好きな檄やパフォーマンスをやるときも覚醒剤を起点とするほど、誰かが支えないといけない人なのに、芸術仲間支援の組織を立ち上げ気にかけ応援する。その為の日々の生活費にも事欠き栄養失調に。だけど、貧しいなりに存分・かつ生き生きした工夫・活力で、仲間と完璧に計算どおりでいて無限の解放に向かう映画づくりを。打楽器・ダンス、身体表現が自然にでてくる位好きなのに、それをさらに拡げる力をもつ映画はもっと好き。金もかかって大変すら、誇り。彼女に集まってきて、魅了され、引き摺られたも全く苦でもなかった人達の凄い顔ぶれ。次々に新天地へ向かう宿命・活力と故郷ウクライナへの郷愁。
そしてその根底の複雑を極めた女性性認識と芸術認識、その突き抜けてる事で感銘を自然に受け、どこかで泣きたいようないとおしい底力を感ず。「子の出産と成長、一点では計れぬ、過程が重要。変化・変容の可能性を見守り続ける事、それが女性芸術家の特質。」「女性の役割は、必要の(とされ)ない人間性を任う事」。
21C始めの作品で、多くの証言者がいまでは故人となってる貴重さ(彼女の遺灰は日本に撒かれていた事実も)以上に、インタビューの引き出し方、音源発掘、冷静で高邁もフランク・威圧感無の処理・構成力。本作自体また一級品である。デレンをその作風から、ニュー・アメリカン・シネマのパイオニアと呼ぶに抵抗があったが、改めたい。


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