ぱたんぐ

図鑑に載ってない虫のぱたんぐのネタバレレビュー・内容・結末

図鑑に載ってない虫(2007年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

めちゃくちゃ書いてたのを自分のミスで消した
あ~あ
なるたけ復活させたいが、あんまりおぼえていないのでうろ覚えで書きなぐる

虫の話をした我が家にでっかいのと小さいのがいて、養っているわけでないけど一緒に住んでいるのだけは違いないという話

外大に居ながら、自分の価値観を固定化してしまう人が一定数いること~のかなしさ~
外大、というと、僕の勝手なイメージだけど、どこか開かれていて広大な視野とそれに見合った価値観をみんながもっているいようなそんな気がしていた、理想でしかないし、それもまた自分の固まりきった価値観の上での話に過ぎませんけど
日本で言われているようなジェンダーの理想の形、いわゆる社会の中での男女平等の在り方が、果たして他の社会においても正しいものとして受け入れられるべきなのかどうか、という
いわゆる自称先進国の我々がもつ理想のジェンダー論、進化の真っ只中にあるそれを他の社会の文脈でも振りかざすことの意味とそこにあるエゴ
まったく上から目線で反吐がでますが、そこにはまぁまぁたくさんの問題があるというか、教育の段階のお話のような?いやでもそれでいてもそういう見方を払拭するのが高等教育の大きな目標の一つであるのは間違いないと思うので、私はちょっぴり悲しくもなるのですね
日本賛美の社会に生きてきた私が視野と知識を広げた結果に、そういうエゴの先端に立つ自分の存在に嫌気が差すみたいなのはままありますわね
結局私は真左の人間なので、というか、になってしまったのである種ものごとを偏った見方でしか考えられなくなってしまっているのは、その通りなんですけど
ある地域で育まれてきた宗教とか文化を基にしたジェンダーを客観的に発見したとして、それが明らかに性差をもつものだということがわかったとして、それを我々が外から是正することが許されるのか?っちゅ~是正するというよりも正しくないですよ!っておっきな声で主張することは許されるんですか?
確かに私がそっち側の性に、より明確に言うと女性じゃないので、そういう風に言えるというのはありますが、それでいてもその土地の当事者じゃない我々がそれらについて言うってのはやっぱりお門違い感ありますよね
結局そこにあるのは社会が、世界の見え方がどこか偏っていて、先進国という言葉に本当は価値なんてないはずなのに(いや知りませんけど)、時代の何処かでそれがある種の上と下を決める価値をもって使われだしたときにその契機がある気します
いや、もともとそういう意味合いを持つ言葉だったのかもしれません、そんな気もしてきました、どっちでもいいんですけど、先進国と発展途上国という二分論の先に先進国としてある我々日本!とそれと対峙する形で、我々が発展を後押しせねばならない、世話をやかねばならない国々としての発展途上国…みたいな価値体系が広く世間に広まっていて、その構造を盲従に信じていることのおかしさに気付かないままいること、が恥ずかしいと思ってしまうのですね
つまりは、広い視野を持っているようでいて狭い価値観を振りかざす者に天誅を!ということです
その意味でいうとジェンダーだけじゃなくて、他の差別みたいに見える構造が果たして本当に差別としていいのかってのはやっぱり考えるべきですよね~差別としてカウントしていいものもあるとは思いますけど、だからといって、絶対に是正するべきとはいい切れませんよねそれを考えるのは当事者側なのであって、倫理を考えるのは我々のしごとではないと思いますね
というか差別のようにみえるものを果たして「差別」っていうある種固定的な価値観を含む単語に変換していいのかっていうのもありますよね、そこに本来あるはずでも、翻訳の過程で失われた感情も絶対にあるとおもうんですけどね

やっぱり科学が一番だ!みたいな価値観には徹底的に抗うべきであって、科学的に正しいので、っていう輩には一旦疑ってかかったほうがいいです、まったくそんなことないので
結局ことばで考えていることがすべてのような気がしていますけど、そんなこたぁなくて文字であらわされるものとか言い表されるものの外にも世界は確かに広がっているわけです

まちにあふれるお店の話と想像がつなぐ未来の話、諦めと想像のフェーズがありますという話
街にはたくさんのお店があって、それでもそうしたお店がいつか潰れてなくなってしまうことは仕方のないことなのだと思いますが、
それでも、店に限らずですが、そういう有限を無限にしたいっていう欲求が人間には備わっているものとも思います
店をすることで残る記憶が、過去として個人の記憶に残っていくそれらが巡り巡って人と人とを行ったり来たりすることが構造として確かにあって、それを一人の頭で想像でわざわざ補うことで生まれる希望も確かにある
結局、命を紡いでいくには個人個人のもつ想像がいっちゃん大切なのだと思いますが、そういうのってやっぱり波がありますわね
想像の対極にあるのを仮に諦めとして、人間生きていくと波が確かにある
映画の中で伊勢谷友介が死んだことで生きてる~って思うのと同じで、生きてるのにも生きてる実感と死んでることへの虚無感みたいなんがあって、それでもいっぺん死んでみたからこれまで生きてた日常がどうにかなるかというとそういうものでもなさそうな~
頭の中にグラフを作って上を想像、下を諦めと定義すると僕は一年間、底辺に点が打たれている気がする
別に波があるだけなので、なんら心配はしていませんが、指標があるのとないのではかなり気持ちが違いますわね~

今見返してたら、サルノテを最後、手に取る瞬間後ろの母は骸骨になってしまっていたね~ちょっと怖~
ぱたんぐ

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