晴れない空の降らない雨

Mの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

M(1931年製作の映画)
4.2
■オフスクリーンの音声
 フリッツ・ラングの初トーキーだが、犯人の口笛が、聴覚情報に敏感な盲目の風船売りのヒントになるという仕方で、音という新要素を物語に巧みに組み込んでいる。また、オフスクリーンもところどころで用いられる。冒頭で少女に殺人鬼が話しかけるとき、警戒を呼びかけるポスターに映ったその影だけを我々は目撃する。母親が帰ってこない我が子を呼ぶとき、その不安に満ちた叫び声をかぶせて、空っぽの空間がモンタージュされる。そして犯人の口笛に盲人が気づくときもオフスクリーンが用いられる。
 
■「不安」の視覚的・聴覚的表現
 このようにして本作は、殺人鬼やその捜査そのものよりも、目に見えない存在=神出鬼没の快楽殺人鬼がかき立てる「不安」という気分に主眼を置いている。それは都会的な不安といってよいだろう。一方で本作は、街のショーウィンドウをかざるオモチャ類と、魅了される子どもたちを取り上げる。これは楽しい消費社会としての都会の風景だが、もちろんその裏面を強調することが目的である。子どもたちが後ろから撮られている点に気づけば、これが誰の目線かはただちに理解される。
 実際、犯人はそうした並べられた商品を見るふりをしながら、別の品定めをしているのだ。次のターゲットを見つけるのが「鏡」というのも、不安の演出として優れている。それは、現代社会では、どこで誰が何を見ているか分からないことを示唆するからだ。この点に関しては、些細な痕跡をたよりに犯人を特定する警察もまた、こうした不安を強化するような監視的存在として描写される。
 そうして映画が描きだすのは、都会の無関心であり、また、何を考えているか分からない人間たちと無数にすれ違うという都会の状況――そこから生まれる疑心暗鬼と不安である。
 さらに映画は、そうした環境下における大衆の暴走も、いささか誇張気味に、冷笑をこめて表している。ラング=ハルボウ夫婦によく見られるこの手の大衆不信は、最後の私刑のシークエンスで頂点に達する。「群集」は映画に特権的な対象といえるだろうが、その表象の仕方は、同時代のドイツ映画でもパプストとラングでは対照的なほど異なる。
 あとは、手紙や調書、写真、電話といったメディアに着目するのも面白いかもしれない。
 
■警察とマフィア、正義と不正義
 警察とマフィア双方の幹部の会議のクロスカッティングから、本作は、殺人事件から両者のレースへと本題を移していく。両者の会議では、これでもかというくらいタバコの煙が立ちこめるなかで、ともに犯人を見つけだす作戦を出しあっている。明らかにこの類似性の意図は、本来は対照的な存在である警察とマフィアを重ねるところにある。執拗な量のタバコの煙は、そうした曖昧さのメタファーだろう。同時に、白黒映画だからこその美学を感じさせる画でもある。
 裏社会の面々による犯人の人民裁判が、映画のクライマックスである。そのとき、合法/非合法と正義/不正義とが果たして一致するのか? という問題提起が明示的になされる。ますますややこしいのが、そのうえ、ここにきて快楽殺人鬼が私刑の犠牲者、また精神異常者として描かれることだ。こうして社会が共有すべき価値規範のゆらぎが、(面白半分に)最終的にクローズアップされている。
 
■精神異常者への関心と実存的不安
 ここには、『カリガリ博士』同様の精神障害への興味が、ドイツ人のあいだで続いていることが見てとれる。そしてドイツ国家がユダヤ人に先だって精神障害者のジェノサイドに着手するまで、本作公開から10年も経っていない。いうまでもなく、了解不能な動機をもつ異常者を殺人犯に据えたのもまた、上述のごとき都会的不安の発露だろう。
 他方で映画は、明らかに精神異常者に惹かれている。思うにこれも、やはり不安の一種に由来したものだろう。つまり、「俺の中に悪魔がいて逃れられない」と悲劇的な身ぶりで犯人が告白するとき、また一人が死ではなく精神異常の治療を主張するとき、そして他の人々がそれに嘲笑とブーイングを浴びせるとき(もちろんこれは逆接的表現だ)、精神障害ゆえの犯罪者に対する一定の同情は明白である。その同情が何に由来するかといえば、近代が個人に強制する「自由」に対する不安と反発ではないだろうか。(と思ってしまうのは、いささか目的論的かつ社会学的に解釈しすぎだろうか。しかしこのときドイツは民主主義と資本主義を初めて本格的に味わっていたのだ)
 
■クライマックスにおける演出
 事実、ここで戦わされる議論は今日でも意見の別れるところで、多くの人が興味をもってその行方を見守りたくなるものだろう。こうして、クライマックスの緊張が維持されている。
 もっとも、当然だがこうした諸々に決着があるわけではなく、ただし警察にはたっぷりと花を待たせて、映画は結局は観客を「安心」させている(当時の検閲の強さも関係あるか)。
 
 これ以上踏み込むのはよして、映像作家フリッツ・ラングの手腕にコメントしておきたい。ここで殺人鬼はリンチされんとする犠牲者へと一挙に転落するのだが、それは、本作後も同種の役柄で活躍したという俳優の演技力もさることながら、1ミリの隙もない見事な構図によって演出されている。つまり、画面左上・階段上に追い詰めるマフィアがいて、正面から強い照明が当てられる。画面右下・階段下に追い詰められた殺人鬼は影の中で彼らを見上げて、カメラに後頭部を見せている。ロケーションは廃ビルの地下室であり、石造りの重々しさがロウキーの映像によって閉塞感を生み出している。
 犯人がふりむく。無言のまま見事な驚愕の表情をうかべ、小さく後ずさる。ショットが替わって、集結した裏社会の面々がこちらを睨んでいる。このような、(大抵は驚いた人物の)反応から先に映す手法は、最初に書いたオフスクリーンもそうだが、ヒッチコックに影響を与えたのではないだろうか。