ケムール人

十三人の刺客のケムール人のレビュー・感想・評価

十三人の刺客(2010年製作の映画)
5.0
三池崇史監督の1963年製作『十三人の刺客』のリメイク版。

時代劇、と聞くと僕ら若い世代には少し難しい敷居の高いジャンルとなっているのが今の現状である。その現状を踏まえ、時代劇を現代の人々にもエンターテイメントとして楽しめるようにアップデートしつつ、「時代劇らしさ」をしっかり余韻として残すことが出来ていた。クエンティン・タランティーノ監督が昔のジャンル映画やマカロニウエスタンの要素をサンプリングし、アップデートしているのに通じる心意気を本作には感じる。

エンターテイメントとしてのアクションはさることながら、本作は各キャラクター(というより「侍」)の実存的課題、アイデンティティの課題をも掘り下げていて、重厚なドラマに仕上がっている。
本作が舞台となるのは江戸時代後期、原爆投下の100年前。この、時代の提示から本作は始まる訳だが、これが意味するものとは個人的には「近代日本=大日本帝国の終焉」であると思う。この「終焉」を最初に提示するのは本作が描く舞台がその「始点」にあることを示すためではないだろうか。「始点」があるとすれば、当然終わるものがある。それこそが「侍が偉そうにしている世」である。幕末という時代、維新成立の原動力となったのは「草莽の志士」である。志士、とは必ずしも「侍」ではない。草の根からの膨大なパワーが時代を動かし、誰もが国民となって新時代の担い手となった。明治維新において「侍」は役立たずにすぎなかった。「どうしてそんなに侍は偉そうにしてるんだよ!」
本作最大の見せ場となるラスト50分(ラスト50分ってなんだよ笑)の大アクション劇は、そんな「侍」たちの自分たちのアイデンティティを存分に振りかざす最期の意地だったのである。忠義、剣、武士道がもてはやされる時代の終焉に一瞬だけ見せた「侍」の意地、かっこよさこそが本作最大のカタルシスである。

そして本作を語る上で忘れてはいけない存在はなんと言っても稲垣吾郎。まさに怪演。否応ない歩く不条理を体現している。特に食事シーンはその邪悪性をこれでもかと言わんばかりに発揮している。また本作の大きな魅力の一つとしてこのキャラクターの造形がある。一貫した理不尽極まりない極悪非道の裏には、「侍」の社会システムに対するニヒリズムがある。最早「侍」の世ではない。幕末の時世において「侍」が形骸化していることを一番理解していたのが彼であった。故に彼は長く続きすぎた武士の世における、空虚になった「忠義」を突き、首を蹴散らし、全てを蹂躙する。あるいは、その空虚なシステムの頂点に「飾り」として君臨する自分自身に生きる実感をもてず、そのことがこの上ない羞恥でもあった。生きる、死ぬ、殺す、殺されるの究極の境界の形成≒「戦の世をあらしめる」ことこそが彼にとって生きる実感がもてる唯一の世界だったのかもしれない。「侍」に対するニヒリズムであり、全ての生きる源、生命感は命のやり取りの中にこそある。ラスト、彼は楽しかったに違いない。「今日という日が生きてきて一番楽しかった」

「侍」、「暴力」、「忠義」
それぞれの生きがいがぶつかり合う、バイオレントで生命感に溢れた荒ぶる躍動そのものがこの三池版『十三人の刺客』であると思う。最高です!
牛のCGはもう少しなんとかすべきだけど笑。