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ONCE ダブリンの街角でのnetfilmsのレビュー・感想・評価

ONCE ダブリンの街角で(2007年製作の映画)
4.2
 アイルランド・ダブリンのグラフトン通り、50%OFFの張り紙がしてあるアパレル店の前、客におひねりを入れてもらうギター・ケースを置きながら、男(グレン・ハンサード)は今日も歌いながら、ギターをかき鳴らすが、一向に客は集まらない。やがてタギングに溢れた裏路地から1人の少年が挙動不審に彼の周りを動き回る。しゃがんで靴紐を結び始めた少年の次の一手に男は勘付き、歌の途中に「盗んだら追っていくからな」とクギを差す。やがて2,3人の聴衆が彼を取り囲むように立った時、少年はおひねりをギター・ケースごと強奪する。HMVに逃げ込んだ少年は諦めない男の姿に心が折れ、公園に入ったところでへたり込む。少年のやったことは明らかに犯罪行為だが、男はそれを許し、病気なんだと話す少年に5ユーロを渡す。その日の夜、再びグラフトン通りに立った男は昼間とは違い、カバー曲ではなく自作曲を夜空の下で思う存分熱唱している。相変わらず客は集まらないが、そんな彼のギター・ケースに10セントを投げ入れる女(マルケタ・イルグロヴァ)が現れる。両手いっぱいに抱えられたビッグ・イシュー、明らかに場違いな女に当初、男は戸惑いながら10セントを入れてもらった手前、彼女の質問攻撃に苦笑いしながらも答える。「彼女にこの歌を歌ったら戻って来るわよ」と言う女に対し、男は即答で「望んでいない」と答えるのだった。数秒の気まずい沈黙の後、フーバーの修理をやってくれると言う男と明日また会う約束をして女は去って行く。

 結論から言えば、彼女は男の歌に惚れたのか?それとも男自身に惚れたのか?どちらが先だったのかは最後までわからない。作詞・作曲した歌は時に人の人格や性根まで見通せてしまう。10セントを入れてくれた女との行きずりの関係を男はその場限りのものだとタカを括っているため、翌日本気でフーバーの掃除機を持って来た彼女の姿に、男はただひたすら戸惑いの表情を浮かべる。修理道具が無いからこの場では修理出来ないと告げた男は、その時点で彼女にまったく興味も関心もない。しかし前日に直すと言ってしまった気まずさか、それとも彼女の強引な誘いに心折れたのか、2人はカフェでグラフトン通りを眺めながら初めての食事をする。ロンドンでの愛情溢れる生活の何もかもを失い、今はただ音楽だけが身近にある男は、彼女の音楽が好きと言う言葉に反応する。チェコからの移民だった女の父親はオーケストラの一員だったが自殺し、もはやこの世にはいない。幼少時代、彼女にピアノの道を手引きしたのは父親だが、移民としてアイルランドへ渡った彼女と母親には、高級ピアノを買うお金などどこにもない。娘のイヴァンカ(間違ってもトランプ大統領ではない)の世話を昼間母親に任せ、花やビッグ・イシューをグラフトン通りの路上で売りながら何とか暮らす女の姿はこの国の底辺を彷徨う。彼女が暮らす部屋の外観は『シング・ストリート 未来へのうた』でヒロインのラフィーナ(ルーシー・ボイントン)が暮らしていた貧しい住処と酷似している。扉の前には何段かの階段があり、ゲットー育ちの黒人たちが群れている。

 互いに脛に傷持つ年増男と移民女性の心の通い合いにただただ胸が熱くなる。男は楽器店で1時間だけピアノを弾かせてくれるという彼女の約束に何の気なしに付いて行き、彼女とセッションし、雷に打たれたような衝撃を受ける。ジョン・カーニーの映画ではいつだって男と女は互いの夢の実現のために共同作業をする。その過程で1人また1人と共感者が集まる。Thin Lizzy(ご存知ダブリンの国民的バンド)しかコピーしないと言った内気なストリート・ミュージシャンであるベーシスト(アラスター・フォーリー)やギタリスト(ゲリー・ヘンドリック)、ドラマー(ヒュー・ウォルシュ)を次々にリクルートしていく後半部分は『シング・ストリート 未来へのうた』の前半部分同様にリクルートものの定型をしっかり抑えている。バンドというのは後天的に形成された家族そのものであり、天井の低い四畳半の狭苦しい部屋に5人がすし詰めに座った時、彼らにケーキと紅茶を持って来る実の父親(ビル・ホドネット)の姿が心底心地良い。昔はクライマックス場面に号泣していたが、今はCDウォークマンの電池が切れた女が、娘のイヴァンカの貯金箱から僅かばかりのお金をくすね、日本で言うところのコンビニで買った新しい電池を入れたCDウォークマンを聴きながら、夜の街で男の曲に詞を乗せる長回しの場面でうっかり涙腺が緩む。それ以外の場面では手持ちカメラはまったくの蛇足だが、マルケタ・イルグロヴァを長回しで据えた夜間撮影部分は何度観ても素晴らしい。荒削りながら大きな野望に夢を馳せる登場人物たちの描写と、『シング・ストリート 未来へのうた』同様に主人公のロマン溢れる背中を見送る血縁家族の姿に思わず涙ぐむ。
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