クリス・ヘムズワースを前にしたときのポートマンは、小さくて子供っぽくて、『レオン』のときにジャン・レノを前にしたときの小さなマチルダを思い出させる。
ひとつには、2メートル近いヘムズワースの身長からくるコントラストがある。でも、もうひとつには子どもが子どもと遊ぶような設定があるのだろう。
白川静じゃないけれど、遊ぶのは神であり、神に近くことは遊ぶことなのだ。その神が遊びをやめて真面目な王になろうとするのが、そもそもの悲劇の始まり。こうして物語は、どんどん遊びから遠ざかってゆく神々の堕落を描くわけだけど、もちろん彼らは人間の似姿なのだ。
こうして神々の堕落は、ぼくらの堕落のパラブルとなる。