Foufou

青春群像のFoufouのレビュー・感想・評価

青春群像(1953年製作の映画)
5.0
『道』の前に撮られた本作、53年公開。映画は必ずしも公開順に見る必要はないとする立場だが、本作と『道』に関しては、公開順に観ることで少なくとも『道』への理解は深まるだろう。『道』を観てイマイチ腑に落ちなかった小生だが、『青春群像』あっての『道』であることがわかれば、監督のその意図は明らかである。

多くの名だたるシネアストが『青春群像』を傑作に挙げるのもさもありなん。これを33歳で撮るフェリーニの驚異は言うまでもないが、その後のフェリーニの作品が雄弁に語ってみせる「ハレとケ」の人生観が、これほどまでにくっきりと現出する作品もまたないからである。

では『道』は過大評価されているのかと言えば、それも違う。『青春群像』と『道』とは、同音異曲もしくは異音同曲ともいうべき二曲一双の屏風絵の趣さえある。自堕落なダメ男が不貞に不貞を重ね、誠実な妻の出奔を招くという話の展開はまるで同じ。かたや地方都市のブルジョワ階級、かたや最底辺の生活者をフォーカスするが、祝祭というハレが物語の重要な結節点になるのも、祭りの後のケにおける虚無の境地において人生の実相というか、生地の部分に登場人物たちが触れるという体験をするのも、測ったように一致している。

祭りの後が後の祭り、ではないけれど、取り返しがつかなくなる寸前で各々の若者が青春という名の泥地を抜け出すさまを描いたのが『青春群像』なら、毎日が祝祭(大道芸が祝祭でなくしてなんだろう)であることを望んだなれの果てを描いたのが『道』であると、とりあえずは言えるのではないか。『道』とは、フェリーニが辿ったかもしれないもう一つのそれこそ道だったのであり、自戒の碑として、あれを撮らざるを得なかったのではないか。

デカダンと堕落は創作の源泉の一つとしていかにも魅力的だが、それは将来、貧しさと慚愧と呪詛のみしか約束しないだろう。それをまざまざと幻視するほどに、若きフェリーニは聡明だったと言える。そしてまた、豊饒さのうちにデカダンを絶妙な配合率で紛れ込ませることこそ、フェリーニの魔法の秘密なのではないかと、嘯いてみたくもなる。

『道』を観て泣くとは、所詮は虐げられた者への同情でしかないのではないか。しかし『青春群像』を観て泣くのは、そこにありし日の自分の姿を見るからであり、それは誰しも形こそ違え、胸の奥に折り畳んで死ぬまで後生大事にしまってあるものなのだ。

それをこそ、優れたシネアストの少なからずが映画の動機にしている。失踪したサンドラと乳飲み子を追って海まで探索する不穏な場面で、黒ずくめのカトリック僧らが波打ち際を隊列を組んで横切る場面はどうだろう。あるいは、青春の馬鹿騒ぎに疲れたモラルドが、誰にも別れを告げずに汽車に乗り込む場面はどうだろう。この瞬間にこみ上げて溢れる涙はいったいなんだろう。

モラルドを見送る少年の晴れやかな笑顔に、ウェス・アンダーソンを重ねるのは小生だけだろうか。ウェスだけではない。多くのシネアストが、モラルドを見送りながら、彼らもまた旅立っていったのである。

原点のような映画。
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