Jeffrey

8 1/2のJeffreyのレビュー・感想・評価

8 1/2(1963年製作の映画)
5.0
「8 1/2」

〜最初に一言、フェリーニ映画史上最高傑作と自負する60年代最大の1本。映画を見終わった瞬間に再度観たくなるイマジネーションに満ちた傑作である。相変わらずの構想とシナリオに感服。自伝的、人々の群像ドラマ、人間オペラ…これが映画だ、祭りだ。とにもかくにも凄い映画である。これを解ろうとしなくていい〜

冒頭、渋滞するトンネル口のイメージ。車から脱出した男は空高く昇っていく。彼は映画監督、行き詰まった制作、医師、批評家、温泉地、女優とスタッフ、少年期の回想、肥満な娼婦、葡萄風呂、少女、混乱、浜辺。今、人生は祭りだ…本作は1963年にイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニが原案、監督、脚本を務めた大傑作で、彼がアカデミー賞を受賞した「カビリアの夜」に続いて2度目になる。この度、BDにて再鑑賞したが素晴らしい。本作もATG配給の外国映画である。この意味深なタイトルは、フェリーニ自身による8作目の作品だった目に、付けられ、フェリーニの処女作「寄席の脚光」でアルベルト・ラットゥアーダが共同監督をした事により、半分(1/2)として加えて、8 1/2本目となる様にしたそうだ。私の好きなグリーナヴェイにも影響を与えた一本で、ペネロペ・クルズがオスカーを手にした「NINE」は本作のミュージカル版だ。

今思えばこの作品が登場した60年代と言うのは、フェリーニにとっても世界にとっても彼が最大の映画作家と印象づけた時代だろう。そもそも50年代に2度のアカデミー賞外国映画賞を受賞して、60年代に入り「甘い生活」で世界3大映画祭の1つカンヌでパルムドールを受賞し、そして本作が登場した。そもそも「甘い生活」の現在名は、"ドルチェ・ヴィータ"といい、それは今でも通用する一般名詞となるほどの世界的ヒットになった(確か内容が過激な上、上映禁止の大騒ぎを巻き起こした映画でもある)。そうした中、次回作の長編映画がなかなか撮影困難だったところに、製作者のカルロ・ポンティの誘いで「ボカッチオ70」と言う作品(オムニバス映画)に参加したが、この作品は彼にとって初のカラー映画だったため、ここでも色々と試行錯誤しただろう。いきなり余談話だが、幼年期のエピソードにサラギーナの話が出てくるが、彼女はフェリーニの故郷リミニに実在した女で、浜辺の小屋に住んでいて、漁師達からサラギーネ(鰯)をもらって娼婦のようなことをしていたので、サラギーナと呼ばれていたそうだ。フェリーニたち悪ガキがやっていくと、ダンスを踊り、性器を見せてくれたそうだ。

そしてまだ続けると、マストロヤンニの横顔で二重顎が目立つことを嫌ったフェリーニは、カメラを彼の顔の片側に置き、顎の贅肉を全て反対側に寄せ集め、テープで固定して撮影したそうだ。その他、細かい砂を使って目蓋を皺だらけにしたり、体重50キロ落とさせたり、髪に白髪のメッシュを入れたり、挙句の果ては、マストロヤンニの短い不恰好な指が長く見える様にキャップをかぶせて演技させたりしたそうだ。指のキャップは取れてしまったので泣く泣く諦めたみたいだ。確か数年前に園子温監督の「ヒミズ」と言う作品でマストロヤンニ賞を受賞した若手俳優(染谷将太、二階堂ふみだったと思うが)が3·11の地震の慰めのように受賞されていたことをふと思い出した。それにしても本作のシナリオは難航を極めただろう。ある男の何の変哲もない1日がテーマと言うのだから…。

映画がそもそも製作に入った時点で、主人公の職業が全然決まっておらず、フェリーニが製作の中断を決意して、途方に暮れていた時に、70歳の誕生日を迎える道具担当の人の祝いの席を見たときに、自分が書き置きをして去ろうとしていたことに恥ずかしさを覚え、庭のベンチに1人で座った際に考え込み、今の自分の心境を映画にすれば良いのだと思い、主人公の職業が映画監督の話に決まったそうだ。さて前置きはこの辺にして、2年遅れて公開され、キネマ旬報ベストテンで第1位を獲得し淀川氏を始め、双葉、植草、奏氏らが揃って10点満点を投じたフェリーニの生涯最後のモノクロ映画にして、彼自身が作り出した映画史上の最も優れた作品の物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は渋滞するトンネル口のイメージ。車から脱出したグイドは空高く昇っていくが、足には網がついていて、地上の男が網をたぐった途端に落下する。ホテルのー室で悪夢から覚めるグイド。映画監督で43歳。ここは温泉地で、グイドのファンだと言う医師は単なる過労と診断し、グイドに湯治をすすめる。温泉地に来ているのは貴族の末裔や枢機卿、裕福なブルジョワたちだが人生の峠を過ぎた老人ばかりだ。一瞬、若々しく美しいクラウディアのイメージが現れる。鉱水を恵む少女だ。グイドはこの地方で新作を撮影しようとしていて、制作体制に入ってから5ヶ月になるのに構想がまとまらず、すでに2週間もクランクインを伸ばしている。助言を得るつもりで呼び寄せたインテリ作家ドーミエは、グイドの脚本を辛辣に批判する。偶然、旧友のメザボッタに再開するグイド。

メザボッタは娘の同級生のアメリカ娘グロリアを連れていて、彼女への熱愛に身も魂も奪われている。グイドの愛人カルラがやってくる。彼女を騙し騙し人目にたたぬ駅前ホテルに泊めて、同じベッドで眠り込むグイドの夢に、母と死んだ父が現れる。プロデューサーのパーチェや製作主任のコノキアにグイドのことを頼んでいる父。涙に暮れる母。いつの間にか母は妻のルイーザに変わっている。次々に勢ぞろいする制作スタッフや俳優たち、撮影を取材する外国ジャーナリストたち。俳優たちは自分の役を知りたがり、スタッフが見当で撮影準備を煮詰めている。パーチェは映画がアメリカに売れたと言う。ディナーショーに出演していた魔術師モーリスはグイドの昔の友人だった。モーリスは読心術師のマヤと組んで出演していて、グイドの心から不思議な言葉を読み出す。ASA NISI MASA…アサ、ニシ、マサ…である。

それはグイドが幼い頃、祖母の家でぶどう酒風呂に入れられるのが嫌だった夜、親戚のロベルタが教えてくれた呪文(ア・ニ・マ=魂)だ。深夜ホテルに帰ったグイドは、何気ない成り行きからローマにいる妻のルイザに電話してしまい、来てほしいと言ってしまう。構想はまだまとまらない。からかうように、あの、鉱水を恵む少女がそこにいる。電話が鳴る。ら カルラが、病気でもないのに鉱水を飲んで発熱したのだった。翌朝、ようやく枢機卿の接見を許されたグイド。映画についての話を持ち出す前に、枢機卿が聴き入ってご覧と言うディオメデス鳥の鳴き声。裏手の山を降りてくる大女がいる。誘われるように、少年期の回想が浮かぶ。サラギーナを見に行こうと誘われて神学校の制服の少年グイドが走る。少年たちを前に、浜辺でルンバを踊るサラギーナ。呼び出された母の前で折檻されるグイド。母の目。サラギーナは魔女だと宣告する神父たち。再び浜辺に行ったグイドに優しく挨拶するサラギーナ…。

偶然に食堂で、そしてもうもうたる湯気の中で枢機卿の言葉を聞くグイド。ルイザは早速やってきた。もちろん1人ではなく、妹とロッセラとルイーザに熱を上げているエンリコ達と。仲間の間で魂を見透かす女と言われているロッセラでさえ、グイドがルイザを呼んだことも、ルイザが心から喜んですぐここに来たことも驚きだったが、ルイザはほんの一瞬ですぐふさぎ込んでしまった。全員が揃ったぞと喜んでパーチェが案内する壮大なオープンセット。鉄パイプで組んだ宇宙船の発射台。核戦争後の最後の人類を救う宇宙船の出航のシーンとして、映画の最大の主役だと得々と説くパーチェスの声に、グイドの呻吟が喜劇的にうずく。ふさぎ込んでしまったままのルイザと、カルラのことを悟られまいとするグイド。だが翌朝、ロッセラとグイドとルイザが3人で、もの優しくも平和に雑談しているところに、カルラは堂々と現れたのだ。

一悶着はもちろんのこと、グイドのイマジネーションは一転、ルイザとカルラが和気あいあいの場面から、フランドル調の田舎家を舞台にした、映画を見るほかない筆絶の世界を展開させる。その夜。現実は残酷だ。借り切った映画館での、これまで5ヶ月の準備から、いよいよ明日にも撮影に入れと言う、俳優たちのテストフィルムの映写で、パーチェを始めとするスタッフは揃い、口うるさいドーミエやロッセラやルイザまでもそれを見るのだ。画面にカルラらしい情婦役のテストが写し出される。当然、ルイザらしい妻の役の女優のテストフィルムも。ルイザは席を立ち、グイドに地獄に行けと言って去る。その時、ついにクラウディアが来た。グイドの構想の中で夢の少女を実現するクラウディアだ。

しかし、彼女に全てを説明しきって、ここで僕の映画は終わっているとグイドが言った瞬間、グイドは暴力的にさらわれる。制作発表。全世界から集まった手強いジャーナリスト団と、撮るか死ぬかと迫るスタッフ。拳銃をこめかみに当てて発砲した瞬間、浜辺で自分を呼んでいる母のイメージ。製作中止と発射台セットの解体をを告げる声。満足げに忠告するドーミエ。浜辺を行く白い人影。突然、グイドは陽気な力を感じる。何一つ混乱が片付いたわけではないが、混乱がそのまま真実だ、祭りだ。グイドのメガフォンマイクが響き、ルイザが少年グイドが、モーリスが、映画の人物全員が登場する…とがっつり説明するとこんな感じで、ありとあらゆる群像劇と賑やかなドラマを作り出してきたフェリーニの最大の傑作である。


いゃ〜、久々に鑑賞したけどやっぱり傑作だわ。相変わらず音楽は彼の作品の構想とシナリオの段階で既に重要なファクターとして働いているのが素晴らしい。今思えば確か46歳位で亡くなってしまった本作の撮影カメラマンを担当したヴェナンツォのモノクロで撮られる映像は画期的にスタイリッシュでスマートである。本作に出演しているクラウディア・カルディナーレは、まぁ美人なこと…。今思えばこの作品の年に、ヴィスコンティのパルムドールを受賞した「山猫」にも出演しているし、「ブーベの恋人」では主演を演じ、仕事量が半端なかった時じゃないだろうか。日本でも爆発的に人気のあるこの作品は結構リバイバル上映されていると思うが、今は懐かしい(私の青春そのもののATG)アートシアターギルドが東和共同配給で初公開していた。そもそも3時間8分に上った映画を、2時間19分に編集して完成版として出しているが、カットされたり省略した場面も見てみたいものだ。

やはり今回フェリーの作品を連続でBDで再鑑賞をして改めてわかったのだが、フェリーニは肥満体の女性が非常に好きである。それは「フェリーニのアマルコルド」しかり「ローマ」等多くに出演している。確かかなり昔に米国で、フェリーニの好きな女性の顔のタイプと言う本が出版されており、その写真の中の女性がほとんどふくよかな女性だったと言う話があった。本作ではサラギーナがシンボリックに写し出されている。大体イタリア映画を論評する際にフェリーニ、ヴィスコンティの言葉がよく出てくるのだが(他にもオルミ、デシーカ、アントニオーニなどいる)フェリーニの作品と言うのは基本的に女性主体の映画が多く、ヴィスコンティの場合はハンサムな男性(ドロン、ヘルムート・バーガー等)を軸に展開される映画が多いことにも気づかされた。ご存知の通りフェリーニは子供の頃にサーカスを見たことによって、サーカス団にインスパイアされていることが多い。なんだかお祭り騒ぎで、人が入り乱れ喧騒していて、あらゆる人種が出現し、奇想天外コミカルに展開する滑稽なシーンを作るのが非常にうまい。本作でもそういったものが多くの場面で見受けられる。これが彼の映画マジック(魔術)である。


冒頭のシークエンスで魅了されてしまうほどのかっこいいファーストショットである。得体の知れない、別の宇宙に存在する何かのような、シュルレアリズム、幻想的なオープニングは何かを暗示してるんじゃないかと観客にイマジネーションを起こさせる。そんで、Nino Rotaの共同浴場の演奏会(セビリアの理髪師序曲~あし笛の踊り)が流れる圧倒的なシークエンスは脳裏に焼き付く。そして3大映画祭などでよく使われている広告のマルチェロ・マストロヤンニのサングラスのシーンはこの場面で登場する。あの砂浜で胸のデカい女性との絡み合いはイタリアっぽくて好感もてる。それにしてもあの骨組みだけの建物はアントニオーニ監督の「赤い砂漠」を彷仏とさせる。グイドが雪の中をプレゼントを抱えて現れるなんてことないシーンがすごい印象に残る。これは多分他の人もそう感じると思う。あの場面すごく好きである。そしてほぼほぼラストシーンに入るとグイド監督大作未完成の終盤になり、やがてサーカスの楽隊、白いマントの少年を先頭に、笛を吹く少年、スポットライトの中に1人残る少年。ここに自らの少年時代をフラッシュバックさせている。これぞとばかりにフェリーニの美術センスが炸裂する(美術担当の人もそうだが)。

美術の話で言うと、この作品はとにもかくにも当時のスタッフのひたむきな芸術への追求にひたすら感動してしまう。このような作品は繰り返し述べてきているが、もう誕生する事はないだろう…。あのサラギーナとグイドの少年期の時の浜辺での別れの挨拶、絡みをとっても忘れられない印象をどこまでも放ち、あの短いシーンだけにどれほど感動するか、なんとも余韻が残るショットがつぎはぎにあるために、いてもたってもいられなくなるのだ。余韻が残るシーンはクライマックスだけで充分だと思う私からすれば、この作品にはクライマックスがいくつもあった。長々とレビューしたが、フェリーニの作品はルネッサンス的もしくは古代的なスケールを持つ映画を世に送り出していて、それらの中に自伝的作品、人々の群像ドラマ、人間オペラ、そしてサーカスあるいは人工的な世界の中で語られる物語を好んで作っている。長々とレビューしたがこれは傑作だ。またすぐに観たくなるような映画だ。
Jeffrey

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