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七人の刑事 終着駅の女のドントのレビュー・感想・評価

七人の刑事 終着駅の女(1965年製作の映画)
4.0
 1965年。青森行きの列車のホームで若い女が刺殺された。バッグは盗まれたらしく遺留品はなし、身分証も持ち合わせていない。身元の特定にすら時間がかかる中、刑事たちは東京という町や駅を歩き回り捜査を開始する。
 あらすじだけ書けばありふれた2時間の刑事ドラマのようである。何だったら2時間ドラマよりもスケールは小さい。しかしこの映画には深い奥行きとドラマがある。物語がある。人がひしめきあって「引いて見るとこんなにもゴチャゴチャしてんの?」と目を剥く駅の構内、町中、喧騒。差し挟まれるアナウンス、声、際立って聞こえる刑事たちの靴音。「雑多」を絵に描いたような駅と東京の町の様子が繰り広げられ、登場人物たちも風景に半ば埋もれる。
 この映像は時代性を映し、懐古的な気分を呼び起こすばかりではない。その中から「死んだのは自分の身内ではないか?」と心配して署にやってくる人々の人間模様、刑事たちのスロウかつ実直な仕事ぶりが、ノミで木を彫るように刻々と描かれていく。署に来るほとんどの人の話は本筋の殺人事件とはまるで無関係である。しかしこの映画はミステリやサスペンスではない。事件捜査に「いなくなった身内を探しにくる」、市井の人間たちのドラマも加わってくる。
 ウチのかみさんと駅でケンカして……と言う男の必死ながらも滑稽な様子の隣、北林谷栄演じる老婆(この頃から老婆役)がちんまりと座っていて、そこから遺体安置所に導かれるシーンのひりつくような、モノクロゆえの明るさと黒さ(暗さではない。黒いのだ)が現す緊張感と底冷えはどうだ。見つかったバッグを七人の刑事が囲んで開ける時の「引き」、その背後にちらちら映る女ひとりのシーンの見事さ。引きの画とゆるやな長回しが多く、緩急があって惹き付けられる。
 映画は事件ではなしに、刑事のひとりが東京に出たての女子に地下鉄の乗り方を教えるシーンからはじまる。この娘は後のシーンでも印象的な出方をする。もちろん事件にも捜査にもはまるで関係ない。だがゴチャついた都会の中、こういう人物がひとり、またひとりピックアップされると、雑踏が雑踏でなくなってくるように感じる。先頃亡くなった渡辺宙夫の「音響」の仕事は65年の東京の群衆の中に「音」はもちろん、「声」を入れる。どこかの誰かの何ということない雑談が幾度か、違和感を覚えるくらいに重なる。
 その違和感ある演出は事件解決後のフィナーレ、カーテンコールのようなシーンでも繰り返され、しかしようやっと私たちは理解する。刑事ドラマとは「刑事の関わる人間ドラマ」であったことを。1965年当時、役者も素人もひっくるめて「人間」が東京でぎっしりと、それぞれに生きていたことを活写する素晴らしい映画だった。いい映画を観た、と思った。
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