otomisan

七人の刑事 終着駅の女のotomisanのレビュー・感想・評価

七人の刑事 終着駅の女(1965年製作の映画)
4.0
 広小路からガード下、不忍口を入るとそこも街の続きそのままで、もう上野駅といわれても出札口も改札も人混みと飛び交う他人の無駄話に紛れてしまい、自分は何をすべきでどちらに向かおうかと我を立て直そうとする間に、財布を掏られる、荷物は置き引きに盗られるわしてしまう。そこへ一便限りの長距離が入ってくれば、荷物は切符はあるか頭数は足りてるか自分はああここにいるの大騒ぎで、直ぐ傍らで人が死んでいても気付きもしないかも知れない。

 いまなら無差別の通り魔犯が騒々しく逮捕してくれ死刑にしてくれとなりそうだが、そうなる半世紀前の上野駅のことである。若くない女の行き倒れが他殺死と知れて、さらに上述置き引き犯が話を拗らせ、女の身元が知れれば、その夫は出稼ぎに出たまま蒸発者。その消息を訪ねて上京した被害者である妻はどうやら上野界隈の曖昧宿で売春に関わっていて、その組織は目下、所轄が内偵中。ひとりの女の死からいったい幾つの事件と犯罪が挙がるのか?

 事件の傍らでは死者に心当たりのある人々も集まってくる。痴話げんかのあと逸れた細君を探す田舎出のバイヤー、家を出た娘を捜しになけなしの金をはたいて上京した老母。あっさり脇で訪ね当てたり、足取りがまた途絶えたり、死んではいないのが確かなだけでもよほど良いのだろうが、いつかまた便りが届くのだろうか。

 上野の駅はこののち、ホームと跨線橋の増設工事で輪をかけた混み様となる。その様子に子ども心にも覚悟なしにはここでは生きられないと思ったものが、ほんの5年ばかりでその人混みに慣れて人は邪魔っ気なゴミとなって彼らを縫って通るようになる。そうなると通行証なしに踏み込めない気な魔界のイメージはどこかに行ってしまう。
 それでも街はいかがわしく駅もその地続きでいかがわしい。こちらの齢が増えるほど逃げ足も速くなって上野もこんなもんだとなっていったのだが、昭和四〇年の上野にはとっくに忘れてしまった魔界時代の印影が刻まれている感じがする。
 駅の柄とでもいうのか、東京駅は天子様の息がかかる場所で庶民は新橋から使うのが東海道線。その行く先は大都会、京都大阪。乗車の人品も自ずと定まっている。ところが上野は信越から東北北海道まで、甲種本線の先は乙丙丁線、林用軌道、畦道杣道から人の通わぬ原生林まで続いている感じがしたから不思議だ。そんな畦道を通ってやって来た人が上野駅を出ると明るい広小路から暗い小路の奥に消えてゆく。
 そんな消えたままの亭主の二の舞となるのを嫌い売春宿から足を洗ってくにに戻る女がやくざな男の岡惚れの弾みで殺された。やくざが女を殺して箔が付くはずもないのに可愛さ余って刺してしまう。刺したがどうしたの虚勢が次第に崩れてゆくのが女に息子がいてと聞かされてなのか聞いてみなければ分からない。
 ただ、このやくざを庇って罪を着ろと売春会社の社命を受けた駆け出しも何の落ち度も無いまま汽車に轢かれて死んでしまう。警察は上野駅殺人事件と売春組織検挙の同時解決だが、あの駆け出しの恋人はまた上野の街に出戻ってゆく。では、蒸発の父と殺された母の顔を郷の子どもは覚えているだろうか?娘の手掛かりを又も失ったあの母親はいつまた東京に出られるだろう。

 むかし上野に感じた魔界の印象は案外間違いではなかったが、殺し殺され失わされた誰もがそうであったように、昭和四三年の魔界の住人も血の通った人であったのだろうと思った。