猫脳髄

晩春の猫脳髄のレビュー・感想・評価

晩春(1949年製作の映画)
4.0
本作以降、小津の作品群に繰り返しあらわれる「父と娘」のドラマを映し出した嚆矢。ただ、本作には独特の湿度があり、後の作品群に比べても特異な位置づけにあると言える。笠智衆と原節子(小津作品初登場)の奇妙に癒着した関係性が伺えるのである。

笠と三宅邦子の再婚話を聞いた原が見せる凍りついた表情、能楽堂で三宅を見かけたときの鬼面のような表情と、にこやかな原からは想像できない何ともオソロシイ顔貌をしているのである。おそらくこれが批評においてエディプス・コンプレックス議論を惹起したと思われるが、確かにこの演出が原作によるのか脚本によるのか、いまひとつ小津の意図を図りかねる。

がま口をネコババして走り去る杉村春子に安心しつつ、終盤の京都での宿のシーンもまた奇妙である。父子が同じ部屋で寝ること自体は旅先でもありまあよいが、父親の再婚に反発していたことを言い淀む原と室内の壺が交互に2回も映し出される「壺議論」のシーンである。モノに語らせる小津のこととて、このシーンも意味深長である。個人的にはこれが父への性的な癒着(エディプス・コンプレックス)を表現しているとは考え難い。ここは、壺と多宝塔の位置関係と両者を仕切る柱からして、娘の父離れを象徴するシーンと思いたいのだ。

とまれ、原節子の癒着説を唱えるある種のバカバカしさは、原作者にせよ監督・脚本にせよ批評家にせよ、たいがいは男性なのである。それでは父たる男たちが、近親相姦の欲望を原に投影したことになるとは言えまいか。ことほどさように、精神分析的な見方は天に唾するようなものである。

個人的にはこの違和感は脚本と演出上の失敗と思っている。後に「秋日和」(1960)で原自身が今度は娘(司葉子)から再婚話を責められることになるが、こちらではきれいに処理できていた。小津が家族ドラマに本格的に舵を切るにあたり、やや手元が狂ったのではなかろうか(13/37/54)。

※1930年代に小津作品の脚色を担当していた野田高梧と再び協働し、以降の脚本は小津とのダブルネームになっている。ホームドラマはむしろ野田の得意とするところであり、影響が大きいかもしれない。
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