映画漬廃人伊波興一

揺れる大地の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

揺れる大地(1948年製作の映画)
3.9
ルキノ・ヴィスコンティという名のふたつの船 「揺れる大地」

ヴィスコンティと言えば何故かふたりの船頭に手招きされているイメージが浮かびます。
そのどちらの船に招かれるかによってヴィスコンティが(純粋な映画屋)であるか(偉大な芸術家)であるか大きく印象が分かれてしまいます。

もちろん私たちが望むのはヴィスコンティがあくまで(純粋な映画屋)であること。

その(映画屋)用の船の中心に積まれているのは、この「揺れる大地」

もう一方の(偉大な芸術家)用の船にはさしずめ「山猫」あたりがでん、と中央に座っております。「ベニスに死す」なども当然(芸術家)用の船に載せられております。

(映画屋)用の船に積まれている他作品は「ベリッシマ」「白夜」「夏の嵐」「若者のすべて」などの長編。「われら女性」や「ボッカチオ70」などの短編も加えてもよかろうと思います。

「熊座の淡き星影」や「異邦人」のような比較的好ましい作品もありますがやはり(映画屋)というより(芸術家)の仕事、という感じ。

その系譜を見渡せば、やはりカンヌ最高賞の「山猫」あたりからでしょうか。どこかおかしくなってくるのは。
別に貴族の没落を描くのが悪いというわけでもありませんが映画自体が没落していくような印象さえありました。

幼少期の貴族生活の中で培われであろう文学、美術、音楽などあらゆるジャンルで優秀だったに違いないヴィスコンティにとっては映画というのは(選択肢)のひとつに過ぎなかったのかもしれません。

「ベニスに死す」のマーラーの旋律が(映画の音)ではなく、苦手なワインをたっぷり飲んだ後の二日酔いめいた眩暈だけを覚えたり、「地獄へ落ちた勇者ども」「ルードウィヒ~神々の黄昏」「家族の肖像」などで主題や音楽、美術などを味わう以前に愛人(?)ヘルムート・バーガーをこれ見よがしな仕立てぶりに目のやり場に困るような辟易さを感じたのもそれゆえのような気がします。

私の世代ではヴィスコンティは追いかけて観たクチですが「揺れる大地」や「若者のすべて」に打ちひしがれた当時の観客たちはヴィスコンティが19世紀の遅れた芸術家に後退していくさまを見ていくのがきっと辛かったことでしょう。

遺作の「イノセント」は思ったより悪くはありませんでしたが(老境芸術家)の肌合いを連想して素直に画面に埋没する事が出来ませんでした。

では久しぶりに「揺れる大地」を観て(映画屋)の船に乗り込んでみようという気になったかといえば否定的です。

なにしろ古びたという印象が強い。資本家対労働者という図式が同じ敗戦国・日本に大きな衝撃を与えただろう、と想像に難くありませんが、今や資本家さえ存在しない(難民)を世界が抱えている時代。

「主人公はまだ若いんだし、働き口があるだけマシだよ」という声もどこからか聞こえてきそうです。

「揺れる大地」という映画が活劇としてもドラマとしても立派な作品である事に異存はありません。海岸で多数の漁船が海に出る場面、青年漁師と仲買人との格闘場面、貧困の中でさえ芽生える淡い思慕を表すかのような若い男女の逢瀬の場面等々・・これらのシーンどれ一つとっても面白い映画がたくさん量産できる方ではなかったかと、惜しまれてなりません。

ヴィスコンティという船にもう一度乗りたいという気持ちもありますが再発見するほどの豊かな鉱脈が隠されているか?

ファンの方々に機会がれば聞いてみたいところです。