チーズマン

リトル・ミス・サンシャインのチーズマンのレビュー・感想・評価

4.7
あれ、こんなに響く映画だったっけ。


この前、まだ二十歳そこそこの大学生の男とちょっと喋ってたら他愛無い話の流れから軽く相談めいた話をされた。
ものすご〜く大雑把に言えば「それなりに友達は多いが、親友と呼べるような友達がいない気がする」と。

ふと、自分の場合はどうだったろうと考えると、会う頻度が高い低いは関係なく今でも絆のある付き合いが出来てる友人に共通するのは、その絆は確実になにかしら“線の外側”で作られていったように思う。

“線の外側”とは法や校則のような決まり事の外側だったり、常識の外側だったり、個人の損得の外側、まあ色々とあると思う。

そんなことを適当に思ってる時に個の作品をたまたま再鑑賞した。
まるで“線の外側”で絆が作られそして確かなものになるまでのプロセスそのものを描いているようだった。

もちろんルーザー(負け犬)達、そして家族の再生を優しく可笑しく描いたロードムービーでまあ普通に面白かった覚えはあった。

というかね、あらためて観ると家族の再生どころかそもそも初めから“再生”されるような家族なんて無くて、それでも競争社会で負け犬なりにそれぞれ各個人が唯一拠り所としていた切り札、それすらもこの作品は容赦なく旅の途中で奪っていく、暖かな雰囲気とは裏腹に結構残酷なんだよね。

ちなみにその大学生の男には「例えば友達が大失敗して皆の前で恥をかくようなことがあった時は一緒に恥をかいてやれ、自分にとって損でしかなくても」
そんな事を軽い感じで言った、いや考える前に言っていた、しかしなんでそんな事言ったのかは分かる。
それは自分はそうやってきたんだ〜という自慢なんかじゃなく、むしろ私が思い出すのは友達の為に“線の外側”へ出てあげることが出来なかった時のこと。
そういうことが何度かある。

この映画で言うなら、ラストのあの場へ上がってあげれなかったということ、うん…そりゃないよねえ。

その時に自分に失うものなんてプライドぐらいしか無かったけど、今思い返すと結局その時に守ったプライドの価値なんて本当たかが知れてたなあと、しみじみ思う。

そしてこの映画の人物達も結局最後に残されたのは己の中のプライドだけ、でもこの人達は“あ〜もうしょうがないなあ”という顔しながら躊躇なく線の外側へ行った。

そしてその瞬間これまでバラバラだったのをちょっとずつ結んでいった絆が確かにキュッと締まった場面だったと思う。

まあ何が言いたいかというと、映画の彼らと一緒に、記憶を遡ってあの時の自分も“線の外側”へ行ってあげれたような気がした。
それだけのこと、それだけのことなんだけど涙止まんなかったなあ。


“外側”ということで言えばこの作品は、「もう僕らあれなんで、競争社会とか勝者だ敗者だのもういいんでそういうの、その外側に価値を見つけちゃったんで」というのを正に競争の象徴ミスコンの舞台上で体現してみせるという、絆とは別の線越えも同時に描かれて…ってこっちがメインか。


まあとにかくこんな主観まみれの文章は本当どうでもいいとして、やっぱ普通にとても良く出来た作品。
良いロードムービー、良いコメディ映画。
チーズマン

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